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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <10> 

編集委員 西本雅実

原爆手帳裁判 職務超えて支援続ける

 一人の被爆韓国人が1970(昭和45)年、治療を求めて密入国する。これが「原爆手帳裁判」に至る

 孫振斗さん=当時(43)=が釜山から佐賀県に密入国して逮捕された記事をくしくも12月8日に読んだ。(広島在住の)フリー・カメラマンの重田雅彦くんや関心を持つ友人らと唐津署へ向かった。何とか面会にこぎつけ、孫さんの写真を撮った。それを持ち、被爆当時住んでいたという南観音(広島市西区)を歩き事実関係を確かめた。広島大で闘争をやった連中にも支援を頼んだ。若い医師は診察に行き、学生は「孫さんを救援する市民の会」をつくり、保釈と広島での治療を訴えた。

 孫さんは1971年に出入国管理令違反で懲役10月となり、福岡県で服役中に病状が悪化する。1957年に始まっていた被爆者健康手帳の交付申請をしたが、県は当時の厚生省の判断に従い却下。1972年に処分取り消しを求めて提訴する

 東京での交渉は友人のジャーナリスト中島竜美さん(昨年死去)に、裁判支援は学生のルートから福岡に住む伊藤ルイさん(大杉栄の4女。1996年に死去)らにお願いした。弁護士費用だとか活動する人たちの足代を、僕は集めて回った。

 当時は編集局次長。表だって旗は振れない。編集幹部が特定の運動をするのは会社に迷惑を掛ける、記者は公正・中立という呪縛(じゅばく)があったのは確か。だが、「朝鮮人はなぜ被爆したのか。その責任はどこにあるのか」(雑誌「世界」1974年8月号に「黙殺との戦い」と執筆)と問い続けてきた。自分の思想から平岡個人として動いた。職権を利用して一線の記者に取材させたら紙面の私物化になる。そこは避けた。

 1978年、最高裁は「原爆医療法は国家補償的配慮が制度の根底にある」と、処分取り消しは違法と認めた一審・二審判決を支持。「原爆手帳裁判」は在外被爆者の交付申請をめぐる壁をこじ開ける。1995年施行の被爆者援護法の根拠につながっていく

 裁判で論理的に詰めていけば、被爆に対する国家責任の追及は可能が僕の考え。1970年代は先鋭的な意見がはやった時代でしょ。全共闘世代やシンパの評論家からは「敵の土俵で相撲を取るようなもの」と批判された。だが勝った。孫さんが原告となったあの裁判を通じて、日本の平和思想は鍛えられたと思います。

(2009年10月15日朝刊掲載)

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