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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <19>

■編集委員 西本雅実

引退表明 「老い」を覚え独り決断

 翌年の市長選を控え3期を目指すとみられていた1998年9月突然、「立候補しない」と表明した

 2期目の柱が「市民参加」なら、次は県域も越えた広域行政とは考えていた。布石として広島県東部の三原から山口県の柳井まで入った13市町による「広島広域都市圏形成懇談会」を(1993年)設け、イベントの広報乗り入れや職員の相互派遣と下地づくりをした。全国のモデルにもなるような広域行政とするには、両県の知事と粘り強く交渉しなくちゃいけない。で、それを考えたら、あ、しんどいのうと思った。

 記者時代から難しいことは勇む方なのに、やったろうという気がしない。萎(な)えたというか老いたなと思った。前任の荒木武市長が70歳をすぎてからの市政を知っていたので自分を重ねてみた。長くやるほど苦言を呈する人間はいなくなり弊害が出る。21世紀が近づき、新しい人がやるべきだと判断した。市長というのは2期でもいろんなしがらみがあって、引退は誰にも相談せず決めた。で、日曜夜に議会筋や関係者に伝え、翌月曜日に会見した。

 会見で「後継者を指名する気はない」としたが、翌年1月の選挙戦になると立候補した前助役を支持する。社民党の衆院議員を辞めて出た秋葉忠利・現市長が初当選した

 ポストは私物化するものではなく、市民が選択するべきもの。広島市長の場合は平和思想も問われる。個人の思想や歴史観は引き継げない。そうだけれど、あの時に「変節した」と非難されても構わんと思ったのは、僕の初選挙を自民党を割ってまで推してくれた人から頼まれた。義理人情を重んじた。それに僕はだいたい勝ち馬に乗るのは好きじゃない。

 市長として何を残したかといわれたら、行政は継続の面が強い。アジア競技大会は荒木さんの時代に招致し、仕上げが僕の時代だったというわけで、功績は荒木さんにある。

 でも、僕みたいな思想の持ち主が被爆50年の節目にいたのはよかったのでは。全く違う持ち主だったらどうなっただろうか。しかしそれは自分で評価できませんよね。放射線影響研究所の移転問題や広島大本部跡地の再開発と、心残りはたくさんある。市民ボランティアの種はまいたし、僕も一市民として取り組んでいる。いつか花開くと思うからです。

(2009年10月30日朝刊掲載)

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