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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第2部 生き抜いていま <1>

■特別取材班 田城明、西本雅実

バイオリン かみしめる親の心

 米国市民の善意に支えられて育ったヒロシマの精神養子たちは、いま50歳前後。わが子の成長と自らの青春の足跡とが重なり合う年代を迎えた。その彼らは、精神親とのきずなをどうとらえ、どのように生きてきたのだろうか。

   「信じられないですね。こんな手紙が残っているなんて」。中学教諭の島本幸昭さん(52)=兵庫県川西市向陽台三丁目=は、広島市公文書館に眠っていた精神親からの古い手紙をいとおしむように子供時代を振り返った。「ゼイザーさんのことはよく覚えていますよ。彼女が送ってくれたバイオリンが10代後半の私を支えてくれたんですから…」

 ビッキー・ゼイザーさん。当時、米中西部アイダホ州に住む、35歳で独身のラジオディレクター。その彼女と25年3月から「母」と「子」の交流を始めた14歳の島本少年に、翌年1月、バイオリンが届いた。「音楽が恋人」だった彼が3カ月前に手紙で頼んだ品だった。少年の日記がその時の喜びを伝える。

 《あゝ、幸福にも夢見たバイオリンが養母より届く。うれしい。なんて幸せなんだろう。やさしいお母様、とうとう私の無理を聞き届けて下さった=26年1月12日》

   中学の3年間、音楽部で活動した少年は、やがて音楽担当教諭らの計らいで週1回、バイオリンの個人レッスンを受け始める。同じころ広島県立廿日市高校入学も決まった。広島戦災児育成所の仲間が、うらやむ存在だった。

 ところが、高校入学間もない26年5月、島本少年は3年7カ月いた育成所を飛び出した。育成所の厳しいしつけ、人間関係に反発しての行動だった。ゼイザーさんとの関係もこの時点で、ぷっつり途絶えた。

 育成所を出てからは、広島市内や呉などを転々としていて、ゼイザーさんのことを考える余裕もなかった。しかし、やがて大学入学までの4年間を過ごすことになる、かつての疎開先、広島県双三郡の農家に住み込んだ時も、バイオリンだけは手放さなかった。

 「でも、その時は音楽の道に進もうなんて、夢にも考えなかった。ただ、バイオリンを身近に置いて時々弾くことで、挫折しそうな自分を奮い立たせていたのです」

   苗代づくり、田植え、草取り…。大阪で9歳まで育ち、農業について何1つ知らなかった少年は、「生きる」ために歯を食いしばって働き続けた。地元の定時制高校での勉強も「農作業の合間を縫って続けたようなもの」だった。

 しかし、「大学に行きたい」という夢だけは捨てなかった。夜間にこつこつと勉強を続ける日々。そして30年、奈良学芸大の小学校教員課程に入学。専攻は、好きな音楽だった。

 形見のように扱っていたバイオリンは、大学へ行く前、双三郡の農家に預けたきり行方不明。「大切にしていたのに、なぜ持って出なかったのか、自分でも分からない」。島本さんの手元に、今、残るのはゼイザーさんの写真一枚だけ。

 大阪で教員になって30年。家庭を持ち、2人の子供も成人した。やっと自らの過去を振り返るゆとりもできた。

 「あのころはバイオリンを送ってくれたゼイザーさんの気持ちを十分に酌み取れなかった。もし、今、連絡が取れるなら、おわびと感謝の気持ちを伝えたい」。島本さんは、心の負債を整理しようと思い始めている。

(1988年7月24日朝刊掲載)

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