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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第2部 生き抜いていま <3> 

■特別取材班 田城明、西本雅実

遺産 母・姉…温かい支援

 24時間勤務が明けたばかりの三谷栄治さん(53)=東京都三鷹市上連雀二丁目=に会ったのは、都心のホテルの一角だった。警備会社の派遣隊長として、ホテルや百貨店などを巡回しながら、隊員の監督、指導に当たる。手にした袋の中には、着替えたばかりの制服がきちんとたたんで入れてあった。

 「ピーターズ夫人のことですか」。三谷さんは面影を追い求めるように一瞬目を閉じ、ゆっくり話し始めた。

 原爆で両親を失った三谷さんが、未亡人のサリー・ピーターズさんの精神養子になったのは25年、中学2年の春。広島戦災児育成所に横じまのポロシャツが届いたのが始まりだった。彼女はカリフォルニア州ラグナビーチ市で世界連邦運動の地元支部長をしていた。「温かくて、やさしい人でしたよ、ピーターズさんは」

 「エイジ。高校、大学へ行きなさい」。母がはるばる広島へやって来たのは28年。中学を出て、広島市内の洋服店に仕立て見習いとして住み込んでいた時だった。「今さら学校へ行くより、早く一人前になりたい」という三谷さんの希望に、母は折れた。

 翌29年上京、母から仕送りを受けながら、都内の洋裁学校で裁断、デザインを学び、合間をみて英会話学校にも通った。「将来はアメリカでデザイナーに」の夢をひそかに抱いていた。「お前の勉強ぶりを見たい」。二度目の来日を知らせる母からの手紙。そしてそれを追うように届いた母の急死の知らせ。

 「辞書を片手に、自分で初めて訳した手紙がそれでしょ。ショックでした」。上京2年目の5月だった。しかし、母の志は途切れなかった。「あなたの将来のために遺産を分けるようにと母は言い残しました」。夫人の二女であるナンシーさんから手紙が届き始めた。15歳年上のナンシーさんは「精神姉」として、三谷さんを励ました。

 そして間もなく、母の遺産500ドル(当時18万円)が送られて来た。月給3千円。三鷹市内の洋裁店で働く三谷さんにとって、思いもかけぬ大金だった。

 東京オリンピックが開かれた39年、遺産の一部を資金に、アパートの自室に「テーラー・ミタニ」の看板を掲げて独立。これで母と姉への誓いを果たした。その年、ナンシーさんは、南カリフォルニア大学教授の夫、ウィリアム・ウルフさんと3人の子供を連れて三谷さんに会いに来た。

 しかし、その姉も3年後に病死。「縁は切れた」と思っていたら、ウルフさんが「君は家族の一員」と便りを寄せ、「精神兄弟」の交わりが始まる。ウルフさんは日本にも教え子が多く、「テーラー・ミタニ」に注文客を紹介してくれた。3年前にはナンシーさんの姉、ベティさん夫婦も三谷さんを訪ねて来た。

 物心両面にわたって援助を受けた精神養子の中でも、三谷さんは際立ったケース。「ボクは恵まれていた」と言う。ピーターズ一家はそれぞれが、夫人の「広島の子供への思い」を心の遺産として受け止めた。

 三谷さんは6年前にテーラーの仕事を辞め、現在の仕事に就いた。「紳士服の注文を取って歩いても、1人の力ではしれているし…」。大都会の片隅で、家族を養って生き抜くのは容易でない。「母の遺産」に報い切れなかった後悔からか、三谷さんの口調は自然と重くなる。「遺言にこもる母の愛」「必ず立派な洋服屋に」。青年時代の自分が載っている古い新聞記事の見出しを横目で見ながら、「精神親や姉、兄が支えにはなったんでしょう…」。ポツリとつぶやいた言葉が、周囲のざわめきにかき消された。

(1988年7月26日朝刊掲載)

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