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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第2部 生き抜いていま <4> 

■特別取材班 田城明、西本雅実

幸運 カズンズさん、親に

 気が向くとピアノに向かう。「弾いていると心が落ち着くんです。こうした時間を大切にすることをアメリカの親から教わりました」

 農協職員の下口輝明さん(52)=広島市安佐北区口田南六丁目=の精神親は、精神養子運動の提唱者でもあるノーマン・カズンズさん(73)と妻のエレノアさん(74)。28年9月、3回目の広島訪問の時、親子の縁を結んだ。カズンズさんは当時、「土曜文芸評論」の主筆、下口さんは広島音楽高校1年生。約2年間続いた最初の精神親を引き継いだ形の2代目の父母は、少年に思わぬ「幸運」をもたらした。

 毎月30ドル(1万800円)の仕送りを続けてくれるというのだ。大学卒の国家公務員の初任給がまだ8千円そこそこの時代。中学を卒業し、広島戦災児育成所の子供たちが次々と社会に出て行く中で、下口少年は戸惑いながらも喜びをかみしめた。

 「苦労して勉強している育成所の仲間に悪いと思ったけど、自分の好きな音楽を思い切りやれると思うとうれしくて…」。カズンズさんは、翌春、息子に「東京へ出て音楽と英語を学んでみないか」と勧める。夢が膨らんだ。やがてカズンズ家の一員となってニューヨークで音楽を学び、英語の勉強もする…。少年は、父の提案を「渡米のためのステップ」と受け止めた。

   29年4月、音楽高校をやめ、7年間過ごした育成所を出て東京へ。原爆で父母ら肉親6人を失い、育成所へ入るまでの約2年間を広島駅前のやみ市で靴磨きをしながら生き延びた戦後。「あすを考えては生きていけなかった」あのころと、「あすへの希望に燃える」現在。夜行列車に揺られながら少年は「自分は何とラッキーなんだろう」と、胸を躍らせた。

 カズンズさん夫妻が下口少年を養子に選んだのは、彼のピアノの素質を認め、米国でも暮らしていけるだろうとの思いがあったからだ。しかし、やがて壁にぶつかる。「ピアノも英語もアメリカ人から学びました。でも正直いって自分が思うほどなかなか上達しなくて…。限界を感じましたね」

 1年半の東京暮らしの後、渡米をあきらめ広島に戻る。19歳で味わう挫折だった。しかし、カズンズさんはこんな時も少年を励まし続けた。「途中で変なことを言ってテルアキの人生を狂わせてしまったね。でも、勉強だけは続けた方がいいよ。それにピアノだって私のように趣味でいいからやりなさい。きっと君の人生を豊かにしてくれるはずだ」

 少年は父の助言に従って高校に入り直し、やがて大学へ進み、社会学を学ぶ。ピアノの練習も続けた。26歳、大学2年の時、高校時代に知り合った愛さん(50)と結婚。40年に卒業して呉市内の児童福祉施設に就職した。この時点で下口さんは「就職したので送金をストップして下さい」と父母に伝えた。

 12年にわたる長期の援助。「恩返しといっても、相手は地位も名誉もある人。自分にできることは明るい家庭を築き、少しでも社会に役立つ仕事をすることだと思ってきました」。地元の農協に勤める下口さんはしみじみと話す。

 ふだんの交流は今はない。が、カズンズさんが広島を訪れると必ず会いに行く。「顔を合わせると、すぐ気持ちが通じ合うんですよ」。こういう下口さんには、父親と共通の趣味がある。「カズンズさんは70歳を超えてもピアノを弾いている。私も何歳になっても弾き続けたいですね…」

(1988年7月27日朝刊掲載)

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