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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第2部 生き抜いていま <5> 

■特別取材班 田城明、西本雅実

師 「挫折の人生」へ助言  《ヒロシ。送ってくれた盆と編み物道具は旅行で使わせてもらうよ。ありがとう。こちらはソビエトとの関係改善に沸いているところだ。君と君の家族も健やかならんことを=63年2月25日付》

   吉野寛さん(52)=横浜市緑区霧が丘一丁目=は、アンクル・ドン(ドンおじさん)と呼ぶ精神親と今も手紙を交わし続けている。広島、名古屋、広島、京都、横浜。ドンおじさんからの封書のあて先が、吉野さんの戦後の歩みを語る。

 広島市中区榎町の生家から縁故疎開していた大竹市内の山中でキノコ雲を見た。親を失った3人の兄弟は以後、1つ屋根の下で暮らすことはなかった。姉、弟と引き裂かれるような思いで広島戦災児育成所の門をくぐった。

 在所時代は、施設のスポークスマンだった。著名人や新聞記者が訪れるたび、100人前後の子供たちを代表して応対した。常に模範児でいなければならなかった。だが、「内心は本当の自分と虚像との落差に振り回され、もがき苦しんだ」。孤立を深める中、「君のおじさんになろう」と呼びかけて来たのが、ニューヨークで出版代理店を営むドナルド・マキャンベルさんだった。

   周囲の期待もあって医師を志したが失敗。肺結核で2年半の闘病生活を強いられる。生活保護を受けながら、ベッドで寝返りを打つ日々。変わらず手を差し伸べたのはドンおじさんだった。「自分の人生は闘い、自分で支えるしかないんだ」。生き馬の目を抜く米国出版界にいるおじさんの哲学でもあった。一見突き放すようでいて、クリスマスには必ず50ドル(当時1万8千円)を送ってくれた。

 高校卒業後5年目にして、名古屋市にあった日本福祉大に入学。実践活動を積むうち、ソシアルワークの先進国である米国留学の希望を抱き、資金づくりのため出版計画を打ち明ける。ドンおじさんは「人生の師」としてアドバイスを寄せて来た。

 《ヒロシマについての著作を米国で出版することは、君が言う通り、関心を呼ぶだろう。君には書く資格がある。売れれば留学資金にもなる。だが何よりも問題は翻訳者の確保だ=38年9月6日付》

   卒業後に戻った広島で、当時親交のあった平和運動家バーバラ・レイノルズさんから世界平和巡礼の一員として渡米しないかと誘われた。しかし、ドンおじさんにも「自分なりの方法で夢を実現する」と答えた。同志社大大学院で聴講生として留学試験に挑んだ。アルバイトしながらの受験。夢はかなわなかった。

 横浜市の丘陵100万平方メートルに広がる社会福祉法人「こどもの国」。吉野さんは40年の開園とほぼ同時に入園。今、業務課長として施設の運営、ボランティアを目指す若者の教育訓練に携わる。

 「挫折を繰り返しながら、彼から多くのことを教えられ、勇気づけられたからこそ、1人前の職業人になり、社会福祉の仕事も貫けた。ちょうど肥料が、しおれかけた植物に新しい息吹を与えるような関係だ」と、手紙の束に目をやる。吉野さんは、ドンおじさんとの歴史を娘たちに伝えようと、自分の手紙を英文で大学ノートに控える。A4判のページの最後には、今も届く記念の50ドルへの返礼がしたためてある。

 《ドンおじさん。クリスマスプレゼントを感謝の気持ちで受け取りました。あなたに若さを取り戻させた新妻にもよろしく。私たちのために100歳までは元気で、長い間の支援本当にありがとう=62年12月30日付》

(1988年7月28日朝刊掲載)

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