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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第2部 生き抜いていま <7>

■特別取材班 田城明、西本雅実

思慕もどかしい片思い

 独り住まいの川崎市内の自宅で、向井恭子さん(51)=仮名=は、精神親と交わした古い手紙の写しに目を落としたまま、少女時代の記憶をたどった。「親子の縁組ができた時は、子供なりに夢を描いたんですけどねえ…」。そうつぶやいた言葉が、いかにも重そうだっだ。

 向井さんの精神親は、ニューヨーク州に住むウィリアム・テリー夫妻。父は日刊新聞の編集者、母は専業主婦。子供のいない2人から「あなたは私たちの新しい家族の一員よ」と、広島戦災児育成所に便りが届いた時、少女は中学1年の13歳。胸のときめきを抑えながら、あいさつの手紙を書いた。

 <親愛なるお父さん、お母さん。私は新しい家族の一員に加わったのですね。早くお2人に会いたいです。たくさん手紙を書いて下さいね=25年3月28日付>

 原爆で父母をはじめ7人の肉親を失った。あとに残されたのは、一緒に縁故疎開していた6つ違いの弟と2人だけ。その弟もやがて、広島県賀茂郡の農家の養子になる。

 独りぼっちの少女にとって、テリー夫妻は、自分を支えてくれる心のよりどころと映った。多感な少女の、父母への期待はとめどなく膨らむ。ところが、期待とは裏腹に、父母から便りが届くことは、まれだった。

 広島市公文書館に保存されている、この親子の書簡は向井さんの22通に対し、親からは7通。精神親がせっせと励ましの手紙を寄せても、あまり返事を出さなかった子供が大半なのに、この少女の場合、むしろ自分の方から親の愛にすがろうとした。

 《お父さん、お母さんは私を忘れられたのかしら。いいえ、きっとお忙しいので、便りを書く時間がないのでしょう=26年2月》

 父母への「片思い」にもどかしさを覚えながらも、「将来は父母の住むアメリカで勉強したい」と、夢と希望を手紙に書き続ける。だが、テリー夫妻からの返事はない。やがて、少女の就職を境に、2年半続いた親子のきずなは切れた。

 6年間暮らした育成所を出た少女は、4畳半1間の間借り生活をしながら広島市内のデパートに勤務。2年後、「高校だけは卒業したい」と、18歳で市立基町高校夜間部へ。このころ新聞報道がきっかけで、劇団「民芸」の故宇野重吉氏らが援助を申し出たが「他人に頼りたくありません」と辞退している。

 給料4,500円。食べていくのがやっと。「本当は援助を受ければよかったんでしょう。でも、つらい思いを繰り返したくなかったんです」。満たされることのなかった精神親への思い。それが、乙女の心を閉ざし、逆に「自立」への意思を固めさせたのかもしれない。

 34年、22歳で結婚。やがて2人の子供も生まれて、平穏な日々を送る。しかし、8年前に交通事故で突然夫を失った。「2カ月間は何も手につかなかった」。失意の底から立ち直った向井さんは、結婚後初めて学童保育の指導員として働き始めた。

 既に高校教諭の息子も看護婦の娘も結婚。「人1倍、人恋しい私が、独りの生活を寂しくないと言えばうそになります。でも、今はささやかながらとても充実した毎日ですよ」

 小柄な体。笑顔に少女のあどけなさを残す向井さん。そんな彼女が、ふと漏らした一言が耳に残った。「この年になってもまだ、親が生きていてくれたらなあって思うんですよ。親への思慕は年を重ねるごとに強まるばかり。こんな気持ち分かってもらえないでしょうねえ…」

(1988年7月30日朝刊掲載)

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