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連載・特集

核兵器はなくせる 「核の傘」をたたむ日 <5> 

■記者 「核兵器はなくせる」取材班

非核三原則 「密約」捨て堅持の誓いを

 核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」―。被爆国日本が「国是」とする非核三原則だ。鳩山由紀夫首相は9月に国連で、堅持していくと世界に向けてアピールした。

 しかし、「持ち込ませず」について、外務事務次官経験者が米国との「密約」の存在を証言した。核を搭載した米軍艦船の日本通過や寄港を黙認してきたとの疑惑だ。それが事実であれば、非核政策の名のもとで被爆国政府が国民を欺き続けたことを意味する。国是も日本外交の信頼性も大きく揺らぐ。

 非核三原則の意義をいま一度考え、あらためて国内外にその堅持を誓う。それは「核の傘」を出る一歩となるはずだ。


問われる被爆国の姿勢

 「密約は多くの外交専門家も不自然さを感じている問題だ」。11月27日、外務省で初会合があった日米核密約などを検証する有識者委員会(6人)。座長の北岡伸一東京大教授は報道陣にこう述べ、来年1月中旬をめどに検証結果を報告書にまとめる考えを示した。

 「密約」は、日米安全保障条約を改定した1960年に日米間で交わされたとされる。自民党前政権は存在を否定し続けたが、今年9月の政権交代直後、岡田克也外相は外務省に調査を命令。3千冊を超える内部資料の中に、密約を裏付ける文書はあったとされる。

 その検証作業を担う有識者委の初会合後、記者会見した岡田外相は「まず事実をしっかり出し、検証する。その上で今後について考えたい」と慎重に語った。

 密約の解明が進む一方で、三原則の「持ち込ませず」を見直そうとの主張も聞こえ始めた。米国の核兵器の日本国内への「配備・貯蔵」は認めないものの、核搭載艦船の「通過・寄港」は容認するとの内容だ。「二・五原則化」と呼ばれる。

 しかし米国は冷戦終結後の1991年、艦船などに積んだ戦術核を米本土に撤収すると発表。作業は翌1992年に完了した。洋上の核戦力は現在、戦略原子力潜水艦に搭載される射程7千キロ超の戦略核ミサイルだけ。米国の核専門家ハンス・クリステンセン氏によると「これまでに戦略核を搭載した原潜が日本に寄港した例はない」のが実情だ。

 一方、自民党前政権時の今春、米本土で保管中の巡航核ミサイル「トマホーク」の退役を阻止しようと日本政府が秘密裏に働きかけていたことが米国の文書などで明るみにでた。射程の短い戦術核のトマホークは、日本に寄港実績のある攻撃原潜に搭載できる。

 つまり、トマホークを現役として残すよう日本が求めることは、新たな核持ち込みを被爆国が促す構図に等しい。

 「日本自らが米国の核使用の出撃拠点になりたいのだろうか。それが核持ち込みの意味するところだ」。米国の秘密解除文書を基に密約の独自調査を続ける外交史家の新原昭治氏=東京都=は、非核三原則を国是として掲げながら「核の傘」にこだわる被爆国の姿勢を問う。

 新原氏はさらに、こうした日本外交の二面性について「裏表のある政策で国際社会から信用されるはずがない」と指摘。「核なき世界を本気で目指すのなら、密約を破棄し、非核三原則を守り抜くのが筋だ」と鳩山政権に強く注文する。


非核三原則 どう生かすべきか
西南女学院大 菅英輝教授に聞く

   日米外交史に詳しい西南女学院大(北九州市)の菅英輝教授に、非核三原則をどう生かすべきかを聞いた。

法制化して本気度示せ

 「核の傘」に依存してきた日本の安全保障政策は、日米首脳らの約束の上に成り立っている。日本は米国が「核で守ってくれる」と信じるほかない。国民の生命や財産を委ねるには、不安定な政策といえる。

 それよりも、非核三原則を堅持し、アジアの平和と安定に向けた外交を進めるべきだ。核に頼らない安保だ。非核の本気度を示すために、三原則を法制化すれば、被爆国として国際的な信用はさらに高まる。世界でのリーダーシップも発揮しやすい。相手をけん制する核抑止力にしがみついたままでは描けない展開が可能になる。

三原則修正不要な議論

 核密約の調査・検証に伴って「非核三原則を二・五原則化してもいいのでは」との声もある。しかし、米国の核戦力も戦後大きく変化している。現在は大陸間弾道ミサイル(ICBM)などが中心。米国側からすれば、必ずしも日本の港などに立ち寄らなくても中国や北朝鮮に対して十分な核抑止力を保てるような戦略を描いている。

 一方で鳩山由紀夫政権は北東アジアの非核化や核兵器廃絶をうたっている。実現を目指すならば、三原則の修正は不要だ。「密約は前政権のものだから継承しない」とメッセージを出せばいい。

核依存こそ危険高める

 米国はヘゲモニー(主導権)重視だから、非核三原則の堅持を日本が主張することで一時的には波風がたつかもしれない。しかし、日米関係は核兵器だけでは語れない。経済や文化交流など幅広い相互利益の結びつきまで崩すとは考えられない。

 中国や北朝鮮が日本に対し核兵器を使うことは非現実的と思う。それなのに、日本が必要以上に不信感や警戒心を募らせ、非核三原則を破れば、自ら核攻撃される危険を高めることになる。悪循環を生むだけだ。

非核の国へ広く議論を

 アジアの緊張を取り除く観点から安保問題にアプローチすることこそ現実路線と言いたい。北朝鮮などから見れば、米国の「核の傘」の下にいる日本こそが脅威だ。そんな日本が非核をいくら訴えても信用されない。

 外交上の対話ができてはじめて北東アジアの非核化も現実味を帯びる。非核三原則に焦点が当たる今、日本の目指す方向について国民の間でも議論を深めるときだ。

かん・ひでき
 1942年熊本県生まれ。米オレゴン大卒。一橋大で法学博士号を取得し、九州大教授などを経て2005年から現職。専門は国際政治学。


◆非核三原則をめぐる動き(肩書は当時)

1951年 9月 日米安全保障条約調印
1954年 3月 米国の水爆実験で第五福竜丸が「死の灰」を浴びる
1955年 6月 重光葵外相が衆院内閣委で答弁。「(米国が)原爆を持ち込まなければならぬよう
          な国際情勢になると仮定しても、その場合は日本の承諾なくして原爆は持ち込ま
          ない
1958年 4月 岸信介首相が参院内閣委で答弁。「政策としていかなる核兵器も持たない
1960年 1月 日米が、米軍核搭載艦船などの日本通過・寄港などを事前協議の対象外とする
          「密約」を交わしたとされる▽改定日米安全保障条約調印
       4月 岸首相が衆院特別委で答弁。「日本は核装備をしないし、核兵器の持ち込みを認
          めない
1963年 3月 池田勇人首相が参院予算委で答弁。「核弾頭を持った潜水艦は、私は日本に寄港
          を認めない
       4月 ライシャワー駐日米大使と大平正芳外相が核密約の内容を確認したとされる
1967年12月 佐藤栄作首相が衆院予算委で答弁。「核は保有しない、核は製造もしない、核を
          持ち込まない
1969年11月 佐藤首相とニクソン米大統領が「核抜き・本土並み」の沖縄返還で合意
1971年11月 衆院本会議の決議で非核三原則が国是に。佐藤首相は「政府として非核三原則
          を順守する旨、あらためて厳粛に声明する
1972年 5月 沖縄返還
1974年 9月 ラロック米退役海軍少将が米議会で核搭載艦船の日本寄港を認める証言
1981年 5月 ライシャワー氏が米軍核搭載艦船の日本寄港を認める口頭了解があったと発言
1991年 9月 ブッシュ(父)米大統領が艦船・攻撃型潜水艦などの戦術核撤去を表明。翌年7月
          に完了と発表
2002年 5月 福田康夫官房長官が非核三原則の見直しの可能性に言及
2009年 5月 村田良平氏ら外務事務次官経験者が「核密約」の存在を認め、同省中枢の歴代
          官僚が管理していたと証言
       9月 岡田克也外相が外務事務次官に日米間の密約調査を命令▽鳩山由紀夫首相が
          国連安全保障理事会首脳級特別会合で演説。「日本が非核三原則を堅持するこ
          とを改めて誓います


国是
   国民の支持を得た国の基本的な政治方針。法的拘束力はない。非核三原則は1971年、国会決議で国是とされた。修正には国会での再決議が必要になる。

核密約とその調査
 核兵器を搭載した米軍艦船や飛行機が日本国内に寄港、飛来したり、日本領海を通過したりすることは、日米安全保障条約が定める「事前協議」の対象にはしないとする日米間の秘密合意。両国は1960年、この密約を「秘密議事録」として交わしたとされる。
 1974年にラロック米退役海軍少将が日本への核搭載艦船の寄港実績を認めた。1981年にはライシャワー元駐日米大使が「通過や寄港は問題ない」とする日米間の口頭了解があったと明らかにしている。
 岡田克也外相は着任早々、(1)1960年の日米安全保障条約改定時に合意した核持ち込み(2)朝鮮半島有事における米軍の戦闘作戦行動(3)1972年の沖縄返還を受けた有事の核再持ち込み(4)沖縄返還時の原状回復補償費の肩代わり―の四つの密約に関する調査を命令。有識者委員会は外務省の内部調査結果を検証し、来年1月中旬をめどに外相に報告する。

(2009年12月20日朝刊掲載)

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