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連載・特集

原爆写真を追う 1945-2007年 <1> 爆心地の伝言板

■編集委員 西本雅実

 原爆投下で何が起きたのか。続いているのか。惨禍を記録した写真に写っていた人たちを追った。核保有論さえ声高に語られる今こそ、被爆の実態を見つめ直したい。

心うずく 家族の証し

 1945年10月1日、広島市の爆心地に入った東京の写真家林重男さんが撮影した。旧文部省学術研究会議の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」に同行していた。2002年に84歳で亡くなる2年前、原爆資料館にネガ232点を寄託した。伝言板に書かれた「猿楽町35(番地)」は、中区の平和記念公園内の原爆ドーム東そばに当たり、「角初(かどはつ)」という仕出し店があった。あの朝までの暮らしは原爆で街ごと消し去られた。

 左下の写真「爆心地の伝言板」に名前がある、角田(すみだ)忠司さん(64)は広島市安佐南区で健在だ。写真を同封した手紙を送って訪ねると、戸惑いつつ繕うことなく語った。

 「幼かったでしょ、おやじの顔も覚えていないんです」。「猿楽町35(番地)」(平和記念公園内)にあった生家の証しには今回、写真で初めて接した。これまで市の原爆資料館も訪れたことはなかった。

 理由は「思い出したくない」と即座に答えた。直接に覚えていなくても、一瞬のうちに家族を奪われた被爆後の記憶にさいなまれるからだ。

 伝言板の冒頭にある初五郎さん(66)は祖父で、父の寿一さん(36)が仕出しの「角初(かどはつ)」を継いでいた。伝三郎さん(30)は叔父、久代さん(58)は祖母、冨美恵さん(27)と緑さん(21)は叔母に当たる。全員が被爆死し、年齢は享年。角田さんは、前の晩まで6人と一緒にいた。

 角田さんと母の房子さん(5年前に86歳で死去)は、空襲を用心して広島湾を望む「五日市町西楽々園」(佐伯区)にあった祖父の別荘に疎開し、行き帰りしていた。母は身重だった。

 「8月6日」は、宮島線から路面電車に乗り換える己斐駅(西区)で被爆した。

 伝言板にある「青山晴次郎」は初五郎さんの別荘宅にやはり疎開していた娘婿。高松市に住む青山さんの長女の木村寿美子さん(64)によると、絵師だった父親が捜しに入り書いたという。初五郎さんだけはたどり着いた楽々園で亡くなっていた。

 角田さんは、母の胎内で被爆2カ月後に生まれた弟との3人で、やがて広島城跡近くに設けられた「和光園」に入る。六畳一間の母子寮に18歳までいた。母は保険会社で働き息子二人を育てた。角田さんはアルバイトをしながら大学を卒業し、東京の商社マンに。全国を転勤しても「8月6日」には妻子を伴い墓参を欠かさなかった。

 「あの朝は、主人がおもちゃで遊んでいて出るのがいつもより遅れたそうです」。妻の光子さん(55)が同居した義母から聞いていた話で補った。子ども二人が独立した今は夫婦二人暮らし。

 角田さんは写真の存在に促され、生家跡を初めて確かめる気になった。62年たとうと消えうせない思いがうずく。

 「原爆は何もかも奪い、生き残った者も不幸にする。それを『原爆投下はしょうがない』なんて考えるのはとんでもない。母は死ぬまでぐちを言わなかったが気持ちは同じはずです」。本籍は今も旧猿楽町に置く。

 生家跡に続き、公園近くでビル管理をしている笠井恒男さん(73)を一緒に訪ねた。猿楽町で生まれ、鮮魚も扱った角初の前で遊んでいた。「角初の息子が生きとったんか! お父さんは高げたをはき、いなせだった。面影があるよ」。ひとしきり続く言葉に、角田さんは眼鏡を外して目頭をぬぐっていた。

(2007年8月9日朝刊掲載)

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