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連載・特集

原爆写真を追う 1945-2007年 <2> 被爆刻む右脚

■編集委員 西本雅実

激しい痛み 青春奪う

 日本映画社の原爆記録映画製作で「医学班」のスチルを担当した写真家菊池俊吉さんが、1945年10月6日に広島赤十字病院で撮影した。メモには「日赤看護婦宿舎にて柱が倒れ懸(かか)り(略)複雑骨折」とある。米軍占領期からネガを守り、1990年に74歳で亡くなった。1945年撮影の860枚のオリジナル・プリントは、原爆資料館と中国新聞社が、広島国際文化財団の助成を得て電子保存化を進めている。撮影メモなどを基に追うと、写されていたのは当時16歳、「看護婦養成部」の生徒だった。

 尾道市に住む田中幸子さん(78)は、被爆直後の右脚が撮られた写真にためらわず向き合った。

 「黒ずんでいるのは切開のあと。包帯を交換するたびウジがわいていました。あまりの痛さに切断してほしいと付き添った父に言い、婦長さんにもしかられました」。過酷という言葉でも表せない青春を強いられた。

 旧姓松浦さんは、この年の1945年春に尾道高女(現尾道東高)を卒業し、「日本赤十字社広島支部甲種救護看護婦養成部」へ入学した。寮の食堂で炊事当番に就いた「あの朝」、白衣を着る夢は一瞬にして打ち砕かれた。

 爆心地の南東約1.5キロ。木造の寮は倒壊し、火炎に包まれる。その前に入院中の兵士に掘り出された、と意識を回復して聞いた。負傷した市民らと病院の玄関前広場で夜を過ごし、窓枠もひしゃげた病棟に移された。

 「広島原爆戦災誌第一巻」(市が1971年に刊行)によると、広島赤十字病院は生徒22人を含む計56人が亡くなった。その章に「重傷の松浦幸子を見舞いに来た父が、院内のイモ畑の中に野天風呂を建て」たとの記述がある。

 父悌三郎さんは当時48歳。尾道から捜しに入り、何度も訪れた。「拾ってきた五右衛門風呂を使い生徒らのために建てたそうですが…」。ベッドから起き上がることもできなかった娘は、「我慢せいよ」との父の励ましに耐えた。現在も親交がある同級生が寝ずの看護に努めウジを取ってくれた。

 退院できたのは翌年5月。複雑骨折した右脚は、骨が重なってくっつき左脚より三センチ短くなっていた。動き回る看護の仕事はあきらめるしかなかった。病棟屋上から別れを告げるため見た廃虚の光景は今も鮮明だ。

 松葉づえをついて帰宅すると、入市被爆した母トシエさんが寝たきりとなってしまった。親子三人暮らし。台所に立ったが、夏になると倦怠(けんたい)感に襲われた。経済的にも苦しい日々が続く。それでも母はこう口にしたと述懐する。「8月6日は命拾いした二度目の誕生日だと思って長生きせんとな」

 結婚したのは1960年。会社員の惇夫さんも被爆のことは気にしなかったというが、一男一女が健やかに生まれ共に胸をなで下ろした。つましくとも笑い声に包まれた家庭を築いていった。

 夫は5年前に78歳で逝った。右脚は加齢で再び歩きにくくなった。脳動脈瘤(りゅう)を手術で乗り越えたが、足底板を付けての通院が欠かせない。安らぎを信仰に得る日々だ。「広島に出なければ人生は違っていたかな、と思うこともあります」と胸の奥の反すうを明かしつつ、原爆をこう証言した。

 「罪もない人間がやられ、『黒い雨』とか想像もできない世界をもたらした。むごいとしか言いようがありません。でもどれだけ伝わっているのでしょうか…」

 6日の平和記念式典。子ども代表の児童二人が「私たちは、ヒロシマを『遠い昔の話』にはしません」と誓うのを中継で見て、心揺さぶられた。「みんながそう思ってほしい」と強く願った。

(2007年8月10日朝刊掲載)

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