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連載・特集

原爆写真を追う 1945-2007年 <3> 焦土の病棟

■編集委員 西本雅実

吹き飛ばされた五感  写真は、広島赤十字病院の本館で、東京の写真家菊池俊吉さん(1990年に74歳で死去)が撮った。服部達太郎外科医長(1993年に89歳で死去)が著した「原爆 ある被爆医師の証言」によれば、1945年10月4日の外科外来の光景である。同病院は被爆直後から、おびただしい負傷者をみた。左奥に写る包帯を巻く女性は当時17歳で「救護看護婦養成部」の2年生だった。生徒らは、被爆で傷つきながらも焦土に残った病棟で寝泊まりして救護に当たった。

 広島市佐伯区に住む大島(旧姓森)キミエさん(79)は、包帯を患者に巻く自身が収まる写真を見ると、こう切り出した。

 「あのころ何を食べていたのかも覚えていない。無我夢中だったんでしょう」。傍らで、中区在住の竹島直枝さん(79)は「10月はまだ窓のガラスは入っておらず、病室入り口にはムシロをつるしていました」と言葉をつないだ。共に広島赤十字病院で被爆し、直後から救護に当たった。

 二人は「日本赤十字社広島支部甲種救護看護婦養成部」の2年生だった。大島さんは北病棟そばの小路で吹き飛ばされた。竹島さんは木造二階の本寮の下敷きとなったが、幸い助け出された。

 二人は記憶を補い合うようにこもごも語った。

 「婦長さんが『歩けるものは救護に回りなさい』と言い、正面玄関へ向かったんです」(竹島さん)。「皮膚が垂れ下がり、血だらけの人たちが、電車通りから列を成すように玄関前にあふれていた」(大島さん)

 鉄筋3階の本館・中央・北病棟は患者の兵士らが延焼をくい止めたが、木造の南病棟や寮は消失。さらに南の広島貯金支局を火炎がなめた。

 生徒らも飛来する火の粉をはたき消し、薬剤を病棟からかき集めた。皮膚の炎症に白いチンク油をひたすら塗り、リバノール液に浸したガーゼを患部に当てた。四方からのうめき声を耳に、焦土の夜を過ごした。

 翌日からは、山口や岡山の赤十字病院からの救護班と応急手当てに努めた。遺体も焼いた。夜になると焼け残った骨のリンがあちこちで燃える。大島さんは、水をくみに歩くと骨がかさこそと音を立てたという。

 腰を強く打っていた竹島さんは帰郷を命じられ、11日にいったん現・府中市の実家に戻った。歯茎から出血をみた。頭にくしを入れると髪の毛がぽろぽろと抜け落ちた。

 戦争が終わっても焦土の病棟は、終息とはならなかった。急性放射線障害による死者が続く。

 大島さんが言う。「鼻からの出血が止まらなくなったあくる日には亡くなっている。それなのに悲しいとか、恐ろしいとかの気持ちがわいて来ないんです」。原爆に人としての感情も吹き飛ばされていた、というのだ。

 同級生は105人が入学し、翌年春に卒業できたのは65人。4人が被爆死し、原爆症などからやむなくあきらめた仲間が多かったからだ。

 二人は、養護教諭となり勤め上げた。竹島さんは「生き残った者の務め」と折に触れて体験を話した。その彼女に促され、大島さんは一昨年に人前で初めて証言した。医薬品15トンを被爆直後の広島へ運んで来たマルセル・ジュノー博士を顕彰し、県医師会と日赤県支部が開く「ジュノー記念祭」。「証言を聞く若い人のまなざしを見て、話してよかった」という。

 焦土の病棟で撮られた写真で、二人が顔をくもらせた1枚があった。ガラス片が突き刺さり左目を失明した同級生がベッドで横たわる姿。「本当にかわいそうなことを…」。12年後に自殺していた。貴重な記録写真といえども、被爆のすべてが写っているわけではなかった。

(2007年8月11日朝刊掲載)

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