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連載・特集

原爆写真を追う 1945-2007年 <4> 迷子収容所

■編集委員 西本雅実

「母」の心 幼子に愛情

 左下の写真は、広島市が1945年8月8日、比治山国民学校(南区の比治山小)に設け、肉親が行方不明となった幼子らを預かった「迷子収容所」で撮られた。ネルの着物や壊れたままの校舎から10月ごろとみられる。撮影者は県警察部写真班員だった川本俊雄さん。1968年に66歳で亡くなり、写真館を継いだ遺族宅で71年に見つかった。同収容所の存在を伝える現存する限りでは唯一の写真。幼子らと写っているのは同校の教師。未曾有の混乱のうちに「母」となり子どもらをみた。

 「子どもらは夕方になったら『お母ちゃん』と泣き出して…」。広島市東区に住む谷村保子さん(81)は、爆風で窓が粉々になった校舎の前で撮られた写真を初めて見るうちに涙ぐんでいた。

 左下に掲載した写真の中央が19歳の谷村さん、左隣のもんぺ姿は斗桝良江さん(1991年に76歳で死去)だった。共に比治山国民学校の教師。焼失を免れた学校に開設された「迷子収容所」で、親が行方不明の幼子らを身を粉にしてみた。

 南区の比治山小が保存している「昭和20年度日誌」が、未曾有の混乱の中にできた様子を伝える。墨で書かれた日誌の一部を略して引く。

 8月6日 「高性能曳航(えいこう)爆弾投下ノ為(ため)児童約三十名重軽傷者ヲ出シ」

 8日 「午後四時 市収入役孤児連行ス 迷子収容所開設サル」

 9日 「罹災(りさい)患者依然多数呻吟(しんぎん)ス 孤児収容所モ二十四名トナル」

 この日の「出勤者」には、谷村さんら女性教師四人の名前があった。彼女らが保健室で「迷子」と寝食を共にする。大半の教職員は3年生以上の学童疎開を率い、荷物を疎開先に運んでいた教師らは住吉橋(中区)近くで熱線を浴びていた。

 「私は若かったから言われたことをしただけ」。谷村さんは先輩の献身をひとしきり語った。

 子どもがいた教師が胸を乳飲み子に与え、学校近くに住む教師が風呂を沸かして入れた。名前が分からない子の名付け親にもなった。自分も乳を含ませたとはにかむように明かした。皆が「母」となり努めた。

 再び日誌を引くと15日は「収容所ヘ諸物資ノ配給アリ」。戦争終結の「玉音放送」の記述はない。感慨を記す余裕もなかった学校の状況がうかがえる。18日に「保母来所ス」。市の派遣や支援が始まった。

 谷村さんは、「がれきの中を大八車を引いて市役所へ物資を取りに行きました」と記憶をたどるうち、日誌に書かれていなかったことが鮮明によみがえった。

 校庭砂場での火葬。血便などに苦しみ息を引き取った幼子らの遺体をまきで囲い焼いた。骨は校長が納めた。「広島原爆戦災誌」(1971年刊)に収録された斗桝さんの手記によれば、少なくとも11人を弔っている。

 「迷子収容所」は延べ200人が入ったといわれる。肉親が現れなかった子どもは、五日市町(佐伯区)にこの年末に設立された「広島戦災児育成所」へ移っていった。

 谷村さんは1982年に教職を退いた。顧みれば70年代からの「平和教育」で、祖父母らの戦争体験を聞き取らせても自らの体験は話さなかったという。あまりに身近すぎたせいかもしれない。

 「あの日」。出勤した学校で被爆し、夜遅く東区内の実家に戻ると、市信用組合本部勤めの父英雄さん(44)が帰っていなかった。4人きょうだいの長姉。気をもみ続けていたところ学校から呼び出しがあった。遺骨も見つけられなかった。

 「戦争は絶対に嫌です。二度としてもらいたくない」。幼子らを抱いた日々から続く願いだ。

(2007年8月12日朝刊掲載)

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