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連載・特集

原爆写真を追う 1945-2007年 <5> 御幸橋の惨状

■編集委員 西本雅実

未来をつくる記憶に

 松重美人さんが1945年8月6日午前11時すぎ、爆心地から南東2.2キロの御幸橋で撮影した。一昨年に92歳で亡くなった元中国新聞社カメラマンの松重さんは当時、中国軍管区司令部報道班員でもあり、被爆当日の市民の惨状を5カット収めた。ためらいつつシャッターを切った2カット目は、国内外にヒロシマの実態を伝える1枚となった。大やけどの市民に油を塗る男性の手前に写っているセーラー服の後ろ姿は、13歳の女子動員学徒、右肩越しに頭と右腕がのぞくのは上半身が大やけどの父だった。

 セーラー服の背中が黒ずむのは、「ガラスが突き刺さった血のしみです」。広島市中区に住む河内(旧姓阪本)光子さん(75)は、御幸橋で父と撮られていた「あの日」を詳しく証言した。爆心地から南東1.6キロ、千田町にあった広島貯金支局に動員されていた。広島女子商2年生だった。

 「Bちゃんが来とるよ」。米戦略爆撃機B29の機影が支局2階窓から見えた。気にもとめず同級生に告げ、机についた途端に吹き飛ばされた。意識を取り戻し、何とか外に出た。すると「阪本光子はおらんか!」。父儀三郎さん(1966年に75歳で死去)の叫び声が聞こえてきた。

 大工の儀三郎さんは、千田町の病院で修理工事をしていた。声を聞かなければ見分けがつかない大やけどの父を伴い、同級生との計7人で北の市役所方面を目指した。辺りは「髪の毛は逆立ち、皮膚はずるむげ」の地獄絵図のような光景。立ちすくんだ。

 そこで南の広島工専から修道中へと回り、皆がはだしなのに気づく。「地面は熱く足は散乱物で傷つくし」、土手に落ちていたズックをはいて御幸橋へ向かった。男性が負傷者に油を塗っているのに出くわした。

 「切れ目なく人が続き、父にも塗ってもらおうと順番を待っていたんです」。そこに、当時32歳の松重美人カメラマンが立ち会った。松重さんは生前にこう語っている。「逃げてきた人たちを後ろから1枚、2枚と撮り、顔をアップでと回り込むと、あまりにむごくて…」。それ以上シャッターは切れなかった。

 河内さんは、松重さんが御幸橋で撮った1カット目にも記憶を奮い起こして証言した。

 「この左側の女性は、抱いていた子どもの名前を狂ったように叫びぐるぐる回っていました。それはむごかった…」。つぶやくような声だった。

 娘は父を連れ、2つの川を越えて舟入幸町(中区)へたどり着く。母フミエさん=当時(46)=は自宅跡で黒こげとなっていた。国民学校1年の弟を見つけ、イチジク畑で夜を送った。翌日、親子3人は荼毘(だび)の場と化した江波線沿いに歩いて己斐へ逃げた。

 河内さんが、いとこから譲り受けた三角襟のセーラー服姿を「私です」と公表したのは被爆から28年後。原爆資料館で開かれた「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」で写真が展示されたのがきっかけだった。

 亡き父との「あの日」の証しでもある写真を手に入れようと名乗り出たら一転、自宅にテレビ局も押し掛けてきた。松重さんから写真の焼き増しを受け取り、「再会」の喜びを分かち合った後は取材を避けてきた。

 今回あえて応じたのは、「逃げ隠れしなくても」と息子の一言に後押しされたからという。孫3人は御幸橋の写真の意味を理解する年になった。

 「生きさせてもらったから孫ができ、こうして話せるんですよね」と言い、こう求めた。

 「原爆の何十倍にもなる今の核兵器だと姿かたちなんかない。撮ってもらった写真を多くの人に見てもらい、恐ろしさを分かってほしい」と。「御幸橋の惨状」を記憶する人々に未来を託した。

(2007年8月14日朝刊掲載)

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