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連載・特集

原爆被災写真 1945-2003年 <1> 廃虚のスケッチ

■編集委員 西本雅実

 広島市の広島平和文化センターがこの夏、米国立公文書館から原爆の惨状を記録した鮮明な写真226枚を入手した。米軍が「原爆の効果」を調べるために撮った写真は、被爆地には「原爆の悲惨さ」を伝える資料。一連の写真を手がかりに被爆の実態を追う。

 一発の原子爆弾で廃虚となった街で絵筆を一心に振るう男性は当時、県立広島ろう学校教諭だった高増啓蔵さん(45)。遺族を捜すと、一緒にいた長男の日記から、撮影日は1945年9月9日と分かった。米軍が撮影していた。写真に見える八丁堀地区のスケッチをはじめ原画18点が残る。最も早い時期に描かれた「原爆の絵」だ。

惨状「描き残さねば」 

 「ええ、覚えています。おやじが米兵を見て『隠れろ』と言い、私は身を潜めたんです」

 高増文雄さん(67)は、千葉市緑区あすみが丘の自宅で、父啓蔵さん=当時(45)=が廃虚の広島でスケッチする写真を前に記憶をよみがえらせた。国民学校、今でいう小学校の4年生だった。

 啓蔵さんが教えていた県立広島ろう学校(中区吉島東)が1945年4月、約45キロ北の吉田町へ疎開することになり、姉と従った。母が前年に病死していた。

 「きのこ雲は吉田町からも見えました。おやじの絵があります」。高増さんは何げなく口にし、表に「原爆スケッチ画」と書き残された箱を取り出した。被爆地が忘れていた、最も初期の「原爆の絵」が出てきた。

 山の向こうに広がる巨大な原子雲、写真のカットに写る八丁堀の惨状、崩れ落ちそうな原爆ドームや元安橋…。18点があった。墨を使ってクレパスで色を付け、「死者ノ冥福ヲ祈リ」との添え書きもある。紙すら不足していた時代。ろう学校で使い古したザラ紙の裏に描かれていた。

 啓蔵さんは、被爆と敗戦という未曽有の混乱の最中、なぜ小学生の子どもを伴い広島に出て絵筆を執ったのか。その半生と密接に絡んでいた。

 東京・銀座に生まれた啓蔵さんは、幼いころ聴覚を失った。ろう学校に通う傍ら日本画を学んだ。1923年9月1日の関東大震災に遭い、死者約14万人が出た帝都炎上を絵巻物にしている。その折、ろう者の友人が憲兵にスパイと見なされ射殺されたことがあった。

 「描き残しておかないといけない。その気持ちでした。もっとも何があるか分からないので私を連れて出たんです」。息子が父の通訳者だった。

 原爆スケッチ画はいつ描かれたのか。高増さんは疎開からの日記が残っているという。中区吉島町に住む姉の田丸歌子さん(70)が保存していた。

 「お父さんが(略)四方の絵を書いてゐられるとアメリカの…」。日付は9月9日。撮影者は、残留放射能の有無を調べるため前日に広島入りしていたマンハッタン管区調査団とみられる。

 親子3人は、8月14日にろう学校と自宅の様子をみるため入市被爆していた。被爆者健康手帳は取っていなかった。「証人が見つからないものですから」。歌子さんは、1985年に84歳で死去した父の勧めで広島ろう学校で教えていた。

 スケッチ画の一部は1954年に公開した後、啓蔵さんの「散逸しないように」との願いから、高増さんが受け継いだ。

 「おやじが必死に描いた絵。大事にしていただけるなら、広島で多くの人に見てもらってもいいと思っています」。雅号は径草。今に続く市民の「原爆の絵」は、まさに廃虚の中から始まっていた。

(2003年7月29日朝刊掲載)

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