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連載・特集

原爆被災写真 1945-2003年 <2> ヒロシマの空

■編集委員 西本雅実

 被爆直後の広島市中心街を東側からとらえた、これまでの公開にないカットである。右上に原爆ドーム。中央に延びるのは平和大通りとなる幅100メートルの防火地帯。手前に交差するのは平田屋川。埋め立てられ、今は若者が集う並木通りなどとなる。原爆詩を代表する「ヒロシマの空」は、ここから生まれた。作者は、焼け跡で母と弟の遺骨を掘り出し、そして父を見送った。

母の骨 さみしい味が

 原爆詩のさまざまなアンソロジーにある「ヒロシマの空」。吉永小百合さんが朗読し30万枚出たCD「第二楽章」にも入る。作者林幸子とあるのはペンネームだった。初出は日本が連合国軍の占領下にあった1950年12月にさかのぼる。

 「原爆をあれこれ言うと反米、共産主義者と見られたでしょ。峠さんから書かないかといわれ、心配する兄たちにばれないようにしたんです」

 旧姓梶谷、川村幸子さん(74)は、打ち明け話をするように声を潜めた。東京都立川市で一人暮らす。子どもは4人、孫は6人いる。だが、「あの詩にあったことは、今もきつすぎて家族にも知らせたくない。忘れたいだけで生きてきましたから」。駅前の雑踏が漂う喫茶店の片隅で、話し声は一段と低くなった。

 詩人の峠三吉(1953年に36歳で死去)とは教会などで幾度か出会い、優しい人柄に魅せられた。菓子の包装紙に題名なしで一気に書いた詩を見せた。峠は編集していた「われらの詩」での掲載を決め、山代巴と2年後に編んだ「原子雲の下より」にも収めた。

 「ヒロシマの空」は被爆の翌日から始まる。

 夜 野宿して/やっと避難先にたどりついたら/お父ちゃんだけしか いなかった/―お母ちゃんと ユウちゃんが/死んだよお…

 当時、16歳の幸子さんは山中高女(現・広島大付属福山高)の専攻科生。動員先の己斐上町(西区)の工場で被爆した。父惣一さん(53)は歯科医。家族四人でいた田中町(中区)が防火地帯を設ける建物疎開にかかり、下流川町(同)に移った。父は、兵器廠(しょう)からさらに離れた街中の方が空襲に狙われにくいと踏んだ。

 しかし原爆は、デルタの街ごとのみ込んだ。母静さん(46)と弟祐一さん(13)は自宅の下敷きとなって炎に包まれ、惣一さんだけが何とかはい出た。2日後、父と娘は鍬(くわ)を手に焼け跡を掘った。

 ぐったりとした お父ちゃんは/か細い声で指さした/(略)/ああ/お母ちゃんの骨だ/ああ ぎゅっとにぎりしめると/白い粉が 風に舞う/お母ちゃんの骨は 口に入れると/さみしい味がする

 「あまりにもむなしくて、一緒になるよという感じで口にしました。父は自分を責め…」。急性放射線障害の死はんが広がり、9月1日に息を引き取った。詩に描いた父の臨終は、召集で陸軍船舶部隊(南区)にいた三男の兄に急変を伝えるため立ち会えなかった。

 「ヒロシマの空」を発表後は、顧みれば平和運動も混乱していた戦後の荒波にほんろうされた。詩作もやめ、東京に出た。家庭に落ち着いても被爆の後遺症に襲われた。原爆を「忘れたいだけ」と語ったゆえんだ。

 それでも地球のいたるところで戦禍が絶えない今の時代に、詩で表せなかった「あの日」そのものを書き残したいとの思いにせき立てられる。

 「生き残った者たちが黙っていたら、想像力のない人間が原爆をまた使いそう。書き上げて死のうと思っています」  りんとした声だった。

(2003年7月30日朝刊掲載)

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