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連載・特集

原爆被災写真 1945-2003年 <3> 焦土からの発車

■編集委員 西本雅実

 無残ながれきの向こうに市内電車と、全壊した車両(左端)が写る。国民服の男性ともんぺ姿の女性たちの手前に、ジープと大柄な兵士が見える。山並みから広島市中区の紙屋町交差点、今は中四国地方で最大の繁華街を南東から撮ったと分かる。西の左官町(中区本川町)から東の八丁堀まで電車が復旧したのは1945年9月7日。被災者を運んだのも一命を取りとめた被爆者だった。

後遺症押し市電運転

 広島市中区吉島西に住む西亀要さん(75)は、前日の軍事教練でしごかれ「午前8時15分」はまだ寝ていた。爆心地から1.9キロの広島電鉄千田町変電所近くの寮二階。地面にたたきつけられるようなごう音で飛び起きた。右腕からの出血が体を染めていった。

 似島に避難。そこで「広島の空に渦巻く不気味な黒い雲を見て、じっとしとられんようになった」と再び湾を渡った。

 明けて7日。復旧作業など3班が組織され、西亀運転士は従業員らの捜索に出た。男性の多くは召集され、1943年開校の広島電鉄家政女学校(南区皆実町)で学ぶ10代半ばの生徒らが、車掌ばかりか見よう見まねで運転も務めていた。

 原爆投下の照準点となったT字型の相生橋に面する櫓下(やぐらした)変電所では、人間は「目も飛び出て男か女かも…」。西約700メートルの十日市電停で、遺体そばにあったかばんの口金と切符を切るパンチから何とか生徒と判断した。

 戦時下とはいえ当時、7つの川が穏やかに流れるデルタを運転席から見続けた光景は、すさまじいまでに一変していた。

 社史などによると、従業員の死亡は211人。生徒も30人が犠牲となった。車両123両のうち108両が破損。どれだけの乗客が亡くなったかは不明である。

 市内電車は、西に約15キロ郊外の廿日市変電所を電力源に9日、まず己斐―天満町間が折り返し単線で復旧する。

 家政女学校2年だった東区馬木の堀本春野さん(73)は、その電車の車掌の乗務をしていた。

 「乗ってくるのは家族を捜そうとする、やけどやけがをした人ばかり。切符や釣り銭はなく、私も立っているのがやっとでした」。学校の寮で被爆した。相生橋そばの旅館で働いていた母赤松アキさん=当時(41)=は行方知れずとなった。

 千田町変電所の送電が再開したのは、戦争終結の玉音放送があった3日後の18日。広電本社―宇品間も復旧する。18歳の体力を見込まれ、本社と宮島線の発着地の己斐との連絡に歩いていた西亀運転士は、その日から運転席に戻った。

 「下痢便は1カ月続く。髪の毛は抜ける。難儀しました」。身を押しての乗務は使命感からと尋ねたら、「どうでしたかいのぉ」。照れたような笑みを浮かべ、「運賃を取ったという記憶はないです」と、焦土からの発車を語った。市内電車の全線復旧は3年後の1948年12月である。

 1959年皇太子御成婚、1975年カープ初優勝…。アルバムには戦後日本の、広島の節目に運転した花電車や無事故表彰の写真が妻昌子さん(69)によって整理されていた。1987年に定年し、続く5年間は嘱託の車掌。被爆を乗り越え50年間、市内電車に乗務した。

 総延長18.8キロ。一命を取り留めた運転士や車掌らが再び動かした市内電車は、毎日10万4千人を運ぶ。西亀さんが「同級生です」と呼ぶ入社年次と同じ1942年製造の650形は、4両が今もデルタの街を走っている。

(2003年7月31日朝刊掲載)

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