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連載・特集

原爆被災写真 1945-2003年 <4> 閃光(せんこう)下の校庭

■編集委員 西本雅実

 原爆の爆発直下から2.2キロ離れた舟入国民学校(現・舟入小)は、爆心地に向かう北側校舎は廊下の窓枠が吹き飛び、柱も内側に傾いた。左側奥の黒板にはチョークの文字が見える。集団・縁故疎開をしていなかった1、2年生らが登校し、南側校舎に面する校庭で朝礼に臨んでいた。元教頭と児童が58年ぶりにそろって訪れ、語った。

児童の朝礼 襲った爆風

 夏休みの児童らが元気にサッカーボールを蹴(け)っていた。広島市中区舟入南の舟入小。

 近くの西川口町に住む笹村弘志さん(94)は「朝礼台はあの辺りでした」と、かくしゃくと歩を進めた。同じ町内の中川千恵子さん(64)は「先生、柳はあそこらですか」と続いた。二人は、原爆がさく裂した瞬間この校庭にいた。

 1945年4月から始まった市内学童の集団疎開で、舟入国民学校は1、2年生を中心に低学年の児童が残っていた。記録によると308人。笹村さんの記憶では、うち120人前後が「8月6日」に登校していた。

 笹村教頭は、所用で不在の校長に代わり訓話に立った。「食糧事情が悪く皆やせとるでしょ。日差しが強いので、男女別々に大きな柳の下に並ばせ話し始めたのが…」。空を見上げる男子がいた。注意しようとしたら、閃(せん)光が走った。「退避!」。その場に伏せるよう叫んだところで、背にしていた木造2階校舎の屋根など飛んできた破片の下敷きとなっていた。

 「気がつくと、子どもらはイモ畑で『お母さん』と泣いとりました」。1年生だった中川さんも「あそこへ逃げたのを覚えています」と目をやった。校庭南側は給食用のイモ畑が広がっていた。

 柳の大木が、偶然にも児童を守った。しかし2年生の女子2人が死亡。「学校がやられたと思った」教頭は、警防団の詰め所へ救助を求めにいった。人影はなく、視線の先にはあちらこちらから火の手が見え出した。

 やがて、すすけた顔の町民らがぞろぞろと続き、放心したように座り込んだ。日が暮れても親が現れない児童7、8人を集め、校庭でムシロを敷き眠れぬ夜を過ごした。妻子は疎開させていた。

 中川さんは上級生の姉たちと一緒に戻った。自宅は倒壊。「残っていた押し入れで寝ました」

 笹村教頭は、被爆後も校長代行として、罹(り)災証明をひたすら書いた。「配給ももらえませんから」。市の「原爆戦災誌」によると、舟入や江波、観音地区から校庭には「数千人の罹災者が長蛇の列をなし」た。

 かろうじて建っていた南校舎も、9月17日の枕崎台風で屋根が落下。翌年2月、町内会からの材木の寄贈で北校舎跡に平屋教室を造り、授業は本格的に再開された。もっとも教室は足らず、「運動場に机を出しての青空教室でした」。2人とも昨日のことのように話した。市内の国民学校39のうち校舎を使えたのは11校だった。

 中川さんは、子や孫も卒業した舟入小で、児童に学校の歴史を語り継いでいる。「鉛筆も最後まで大事に使った。そうした体験を話すと、子どもらは真剣に聞きます」

 笹村さんは、77の喜寿から修学旅行生に証言してきた。「90歳になり辞めました。年ですからのぉ」と笑った。毎年8月6日は、ラジオを携えて舟入小を訪れる。平和式典の「平和の鐘」の音に合わせ一人黙とうする。この校庭で祈らずにはおれないからである。

(2003年8月2日朝刊掲載)

 

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