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連載・特集

似島 眠りから覚めて <1>

■記者 桜井邦彦、加納亜弥

推定57人 茶褐色 もの言わぬ遺骨

 広島市南区の似島で、原爆死没者の遺骨が相次ぎ見つかっている。被爆59年。今になって掘り起こされる事実が、原爆被害の底知れぬ甚大さを物語る。茶褐色でもろくなった骨の姿が、世間に忘れられてきた歳月の長さを思い知らせてくれる。あの日の体験を、私たちはどう胸に刻み、次の世代に伝えればいいのか。夏のヒロシマを歩いた。

 作業員がスコップで一掘りすると、長さ数センチ、大きいもので40センチある骨が次々に姿を現した。骨の中を貫き、まとわりつく木の根がある。地中で上や横を向き、発掘を待つ何体もの頭蓋(ずがい)骨がある。59年間の眠りは、その骨も歯も茶褐色に変えていた。

 原爆投下直後、約1万人もの負傷者が運ばれたとされる似島。火葬が間に合わなかったのか、この辺りでは折り重ねて埋葬されたらしい。作業員は慎重に骨を拾い上げる。それでも骨はもろく、はがれたりもする。

 「何年もほっとかれて気の毒で…」。6月24日、地後敏範さん(69)=中区昭和町=が現場わきにしゃがみこんだ。数本の線香を地面に挿し、数珠を握り締めて手を合わせる。

 兄雅章さんの行方は今も分からない。当時、旧制広島一中(現国泰寺高)の1年生だった。建物疎開作業に出かけたきり、帰ってこない。

 母きみえさん(93)は9日後の8月15日、似島に運ばれたらしいと聞いて訪ねた。軍人から1枚の死亡診断書をもらっただけ。現在、市内の老人ホームで暮らす母は、地後さんから島での発掘作業の様子を聞くと「よう行ってくれた」と声を絞り出した。13歳だった息子の面影を思い出すのか、涙はやまなかった。

 同じ広島一中1年生だった池田昭夫さんは、3日後の8月9日に似島で亡くなったことが分かっている。14歳だった。母ハルヨさんが島に駆けつけると、知り合いの軍医が変わり果てた息子を見つけてくれた。1時間前に息絶えていた。母は、軍医が切断してくれた右手の薬指を瓶に入れて持ち帰り、墓に納めたのだという。

 今は亡き母に代わり、昭夫さんの弟の和之さん(69)=南区翠=が毎年の命日に島に向かう。今回の調査で最初に見つかった遺骨の慰霊式が6月3日、中区の平和記念公園の原爆供養塔前であったときも、和之さんは参列した。死没者の遺族は、ほかにだれもいなかった。「当時を記憶する人が減ってきた。寂しい。どうもできない自分が、じれったくもある」

 似島では1971年にも、今回の調査と隣り合う区域で、市が推定617体分の遺骨と61点の遺品を発掘している。遺品から死没者7人の身元も判明した。

 「赤茶けていたが、すぐに弟のバックルだとわかった」。林昭雄さん(76)=東広島市西条岡町=が33年前を振り返る。インディアンの絵柄が決め手だった。弟の治行さんは市立造船工業学校(現市商高)1年だった。

 今回の調査でも学生ボタンやバックルなど28点の遺品が出ている。だが、多くはさびつく。出土した推定57体の遺骨の身元は、いまだ分からない。

《似島の遺骨をめぐる主な経過》

1945年 8月 6日 広島に原爆投下。負傷者を収容するため当時の日本陸軍似島検疫所に臨時
             野戦病院を設置。25日に閉鎖するまで推定1万人の負傷者が運ばれた
1947年11月    島内の原爆死没者の遺骨を集め、南風泊地区に似島供養塔(千人塚)を建立
1955年 8月    似島供養塔から遺骨約2000体を発掘し、平和記念公園(中区)の原爆供養
             塔に納める
1971年11月    旧日本陸軍馬匹検疫所跡地(似島中学校農業実習地)での市の発掘調査で
             推定617体の遺骨が見つかる
1990年10月    馬体焼却炉跡地の市の調査が終了。人か馬か分からない骨灰などを発掘
2004年 5月27日 71年調査の隣接地での市の試掘で遺骨1体分を確認。6月14日から本格
             調査始まる

(2004年7月16日朝刊掲載)

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