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連載・特集

似島 眠りから覚めて <2> 

■記者 桜井邦彦、加納亜弥

野戦病院 負傷者の波 隣り合う死

 似島(広島市南区)の東海岸沿いにある市似島臨海少年自然の家に、1本のクスノキが立つ。濃い緑の葉を茂らせ、幹にコケを生やした大木はあの日、原爆の閃光(せんこう)を見た。その後のおびただしい犠牲者を目撃した。

 「あのころより、だいぶ大きゅうなった」。島の反対側に住む奥本カヤノさん(83)が木を見上げた。一帯が、戦地から帰国した兵士を検疫する陸軍第二検疫所だったころのことを話し始めた。

 奥本さんはここで、軍の職員として働いた。病室棟の入り口にあったクスノキを毎日くぐった。近くに土俵をこしらえ、兵隊たちはしばしば相撲を取っていた。

 原爆投下直後から、第二検疫所は負傷者を収容する臨時野戦病院となった。顔や体が真っ赤に膨れ上がった負傷者がひしめく。数分前まで息があったのに、気がつくと土俵に積まれていた。「ここに立つと、あの遺体の山が目に浮かぶ」。奥本さんの口元が震える。

 幼なじみの堀口幸枝さん(82)が隣でうなずく。当時、似島国民学校の教諭だった。野戦病院に運ばれたとされる被爆者は約1万人とされる。その看護に当たった。すぐ薬は切れ、やけどした皮膚に灰を塗ってしのいだ。

 ふと、うつろな目をした裸の少年が目に留まった。何度も「お母ちゃん、大豆ちょうだい」とうわ言を繰り返していた。島を出て旧制中学に進学した教え子たちの安否が気になった。

 島には今も、当時を記憶する人が多い。似島国民学校5年だった新江堤さん(70)は野戦病院の窓越しに、「水をくれ」のうめき声を聞いた。カメラマンがフラッシュをたいた。負傷者は光におびえ、逃げようとする。「またあの爆弾にやられる、いう感じでね」

 今は対岸の南区宇品神田に住む平田年枝さん(71)は似島尋常高等小1年だった。毎日、知り合いの女性を看護するため野戦病院に通った。「水をやったら死ぬ」と言われ、スイカの皮で顔を冷やしてあげた。女性はその皮を必死に吸った。

 空襲警報が鳴ると、負傷者も防空壕(ごう)へ向かった。やけどでむけた皮膚をひきずりながら。「地面にすれて、シャリ、シャリと音が聞こえたの。かわいそうで」。その負傷者は2度と、壕から出てこなかった。

 亡きがらは兵隊たちが大八車や担架で、第二検疫所から約600メートル南の馬匹検疫所の敷地内へ運んだ。市が現在、遺骨の発掘調査をしている場所だ。

 兵隊たちは馬を洗った穴を使い、まるで材木のように次々と遺体を投げ込んでは油をかけ、燃やした。夜は敵機の標的にならないように海水で消し、翌朝また、焼いた。やがて間に合わなくなり、火葬せずに埋葬した。

 「兵隊さんも必死じゃった。仕方なかったんかね」。平田さんは天をあおぐ。

(2004年7月17日朝刊掲載)

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