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連載・特集

核兵器はなくせる 第9章 ヒロシマから <1> 免田裕子さん

■記者 林淳一郎

 米ニューヨークの国連本部で5月3~28日にある核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせ、被爆者ら広島から約100人、全国から約2000人が原爆投下国に向かう。「なぜ核兵器をなくさなければならないのか」を訴えるために。老いなどにより渡米がかなわぬ人たちの思いも含め、それぞれが再検討会議に託す期待と決意を追う。

 「あの戦争で父も母もいなくなりました。私たちは何も悪いことなんかしていないのに…」。3月下旬、広島市東区の牛田公民館。主婦や子どもたち22人に、安芸区に住む被爆者の免田裕子さん(70)が語り始めた。

 5月には広島県原水協の派遣団に加わり、NPT再検討会議がある米国へ向かう。「子どもを路頭に迷わせる原爆、戦争はいけん。私には語り、伝える責任があると思うの」

 爆心地から約4キロ、祇園町(現安佐南区)の自宅で閃光(せんこう)を見た。コールタールのような「黒い雨」を浴びた。病気がちの母は間もなく、5歳の免田さんと姉、兄、妹の4人を残して他界。父はフィリピンで戦死した。

 免田さんは中学を卒業すると、呉市で食堂を営む遠縁を頼った。住み込みで店を手伝い、夜間の高校に通った。「親を奪った戦争を恨みもした。日本が民主主義になり、許す気持ちもあった」

 牛乳配達、給食調理員と、がむしゃらに働いた。結婚して2人の娘を授かった。だが、わが子の体の具合が悪くなれば「原爆の放射線のせいじゃないか」と不安にかられる。

 被爆者健康手帳を取得したのは、35歳になってからだ。「娘を被爆2世にしたくなかった。でも、原爆は『おかしい』と訴えるには手帳が証文になる」

 1990年、ジュネーブの国連欧州本部で、国際女性の日の会議に参加した。核兵器、核実験、放射線の健康影響がテーマ。免田さんは原爆被害を訴えた。

 ところが話がかみ合わない。「私は1発の原爆がどれだけ人を苦しめるかを問題にしているのに、会議の話題は何万発もある核兵器の削減。存在の否定ではなかった」。ヒロシマを理解してもらう「壁」を感じた。

 今、こう考える。「広島と長崎の被爆は人類が受けた悲劇。そうとらえないと、廃絶が当たり前にならない。人類の頭上には今も、核兵器が鈴なりのようにぶら下がっている」

 米国では再検討会議開幕直前のデモ行進に加わり、できる限り被爆体験を伝えるつもりだ。「核兵器のない未来を約束できる機会にしたい。私の力は小さいかもしれないけれど、黙っているわけにはいきません」。まなざしに力を込め、前を向いた。

核拡散防止条約
 1970年に発効し、1995年に無期限延長された。約190カ国が加盟。核兵器の保有国を米国、ロシア、英国、フランス、中国に限定し、核軍縮交渉の義務を課す。非保有国には原子力の平和利用の権利を認め、核兵器製造や取得を禁じる。事実上の核保有国であるイスラエルとインド、パキスタンは未加盟。北朝鮮は2003年に脱退を宣言した。運用状況を点検する再検討会議を5年ごとに開く。

(2010年4月13日朝刊掲載)

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