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連載・特集

ヒロシマ60年 記憶を刻む 第1部 原爆小頭症患者は今 <1> 母と娘

■記者 門脇正樹

母と娘 一秒でも長く生きたい

 妊娠初期の胎内で強い放射線を浴びると、頭囲が小さく生まれ、知的・身体障害を伴う場合がある。「原爆小頭症」と呼ばれる。厚生労働省が認定する患者数は、全国で22人(2003年度末)。周囲の理解を求めながらも偏見を恐れ、社会の片隅を生きてきた患者や家族が多い。あの日から60年。被爆地に刻みこまれた記憶が薄れないうちに、被爆体験を次世代が継承していくために、まず、ある小頭症患者の軌跡をたどる。

 夏本番を思わせる日差しを照り返し、石畳がまぶしい。気温はぐんぐん上がった。6月上旬のある昼下がり、親子は広島市中区の平和記念公園に姿を見せた。原爆小頭症患者の行く末を考える集いがあったからだ。

 人懐こい笑顔で、おじぎを繰り返す娘(59)。つえなしに歩けない母(84)は、詰め掛けた報道陣のカメラに戸惑い、つぶやいた。「来にゃあ、よかった」。娘に向けられるまなざしを、母は「好奇」の視線と思ってしまう。口をつぐんだ。

 10年前のこと。母と娘は住み慣れた北九州市を離れ、被爆地広島をついのすみかに選んだ。忌まわしい記憶の地であっても、被爆者への視線は温かいに違いない。自分の体が元気なうちに、根っこを張った生活を築こうと、母は考えた。

 小頭症は胎内での直接被爆が原因であって、遺伝とは関係ない。だが、「被爆した女性は障害児を産む」との誤解が広まり、被爆者の結婚差別を招いた時代もあった。「『原爆に遭った』と人に話し、いわれのないいじめを受けたことがあるんです」と母はこぼした。幼いころのことを思い出すのか、寄り添う娘の目が赤みを増す。

 20年間住み慣れた北九州には息子もいる。だが、被爆後の困窮時に里子に出された経験から、原爆の話を嫌うという。幸せな家庭を築いてもいる。母は、息子に負担を強いるつもりは一切ない。だから、頼れる知人や親せきはいなくても、娘とともに決然と広島を目指した。自分が先に死んでも、娘は周囲の理解を支えに、一人で生き抜いてほしい―。

 60歳に満たない娘ともども高齢者施設への入所はできないため、まずは県営住宅に暮らし始めた。娘は間もなく市内の知的障害者施設に通い始め、箱作りなどで収入を得るようになった。

 初めての給料日。娘は封筒を手に、声を弾ませて戻ってきた。「ねえねえ、お母さん。私の顔をじっと見て。私の目は輝いているでしょ」。母は今も、このときの笑顔が忘れられない。

 おなかに宿ったころも含め60年の間、2人は一度たりとも離れずに生きてきた。来春、娘は還暦を迎える。顔のしわが深みを増すその姿に、傘寿を過ぎた母は願う。「娘より1分でも1秒でも長く生きたい。みとってから死にたい」

 娘の自立は容易ではない。親心は揺れ続ける。母はつえを握りしめ、自分と家族の人生を一瞬のうちに変えたあの日の閃光(せんこう)を悲しく、恨めしく思い出す。

(2005年7月10日朝刊掲載)

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