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連載・特集

ヒロシマ60年 記憶を刻む 第1部 原爆小頭症患者は今 <3> 距離

■記者 門脇正樹

距離 遠い被爆地 疎外感募る

 原爆小頭症と胎内被爆との因果関係を国が認めた1967年、親子は北九州市にいた。母(84)は当時、地元企業の社員寮に寮母として住み込んだ。21歳で中学を卒業したばかりの娘は、下関市内の和裁学校に電車通学していた。

 母はひたすら、被爆体験を周囲に隠していた。「被爆者はいつ死ぬか分からん。うちでは雇えんよ」。就職先を探すたびに無理解の壁に心を痛めてきた。「娘のことで心配かけられませんから」と親類と距離を置いた。前年に結婚した息子とも別居する道を選んだ。

 親子が「原爆小頭症」の言葉を知ったのは1974年のこと。患者の姿を社会にさらすことで、核兵器の愚かさを訴えた岩国市の親子を紹介する新聞記事を読んだ。

 衝撃を受けた。妊娠初期に近距離被爆した母胎から知的障害児が生まれるケースは、娘の誕生日から逆算すれば、わが身とも重なる。「ひょっとして娘も…」。地元の傷痍(しょうい)軍人会や保健所へ相談したが、「妊娠中の栄養失調が原因でしょう」。にべもない対応を「被爆地との距離、原爆に対する疎外感が身に染みた」と母は振り返る。

 1986年、母は転んだ弾みで左大腿(だいたい)骨を折った。つえなしで歩けなくなり、やむなく寮勤めを辞めた。取り置きしていた被爆証人捜しの新聞記事を手掛かりに、広島の被爆者団体へ電話をかけた。紹介された医療ソーシャルワーカーの働きもあって1989年、娘はやっと原爆小頭症と認定される。43歳になり、頭にうっすら白髪が交じり始めていた。

 その直後、70歳が近づいた母は脳腫瘍(しゅよう)で入院する。病床の自分、そこから離れようとしない娘。将来に不安を覚えた。娘の和裁の技術は趣味の域を出ない。料理の腕も、みそ汁や卵焼きなど数品にとどまる。19回を数える失跡癖もあった。

 「このままじゃいけない。被爆者に理解がある広島に行きさいすれば、何とかなると思いましてね」

 広島には、小頭症患者やその家族たちでつくる「きのこ会」もあると分かった。ジャーナリストや作家の山代巴さん(故人)たちの呼び掛けで1965年に発足し、親亡き後の患者の終身保障を目指して活動していた。

 「原子雲の下より生まれ(中略)、たとえ日陰で育とうとも、キノコのように強くたくましく成長してくれますように」。会の結成趣意書に、「この子を残しては死ねない」との親の悲願がこもる。世を忍び、2人で生きてきた親子に、初めての仲間ができようとしていた。

(2005年7月13日朝刊掲載)

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