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連載・特集

核兵器はなくせる 第9章 ヒロシマから <4> 高山等さん

■記者 林淳一郎

 体の痛みが、65年前の記憶を呼び覚ます。東広島市原爆被害者の会の高山等会長(79)は腰の傷をさすり、涙をぬぐった。

 「行きとうて、行きとうて」。5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向け渡米を計画していた。自身の年齢に「最後のチャンス」と思い、オバマ米大統領登場以来の核兵器廃絶機運にも期待が募る。しかし昨年秋に1カ月余り入院。体調の不安から、断念せざるを得なくなった。

 爆心地から約2キロ、学徒動員された広島市皆実町(現南区)の工場で被爆した。爆風で吹き飛ばされたが、大きなけがはなかった。ところが17年後の1962年、腰に悪性腫瘍(しゅよう)が見つかった。

 広島市内の病院で、左腰の筋肉の大部分を切除する手術を受けた。病床に見舞った妻と当時1歳の長男が、にっこり笑いかけてくれた。「でも、そばで亡くなっていく被爆者を何人も見た。自分はあと何年生きられるか。そう思うと、不安で、苦しゅうて…」

 退院し中学の国語教師に復帰した。1966年8月、誘われて広島YMCA(中区)での会合に出かけると、被爆者が涙ながらに証言していた。「沈黙している自分の罪を感じた」。それが転機となった。

 休日を返上し、被爆体験の聞き取りを始めた。「原爆被害は海外でほとんど知られていない」と聞くと、原爆資料館(中区)などの協力も得て証言を英訳。1969年に冊子「広島の追憶」を出版し、米国などの知人に送った。

 大国が競って核兵器を増やしに増やした時代。「原爆を落とした米国は憎い。けれども、それよりも、自分たちが受けた痛みが二度と繰り返されないよう、できることをしたかった」。冊子の改訂増補を重ね、題も「広島の追憶と今日」とあらためて国連本部などに送った。米ホワイトハウスやローマ法王庁から礼状が届き、被爆者の肉声を伝える重みにあらためて気付いた。

 56歳で教師を退職してからは、被爆資料収集に力を注ぐ。頭髪が焼き付いた鉄かぶと、焦げたズボン…。今、東広島市の八本松公民館など2カ所に計千点を超える資料をそろえ、子どもたちが平和学習に生かしている。

 「原爆が何をもたらしたのか。個人、家族に国家、そして世界が知っていくことが、核兵器をなくす道へつながる」。今回、NPT再検討会議で渡米する仲間の被爆者らに、44人の被爆手記集150冊余りを託した。

(2010年4月16日朝刊掲載)

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