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連載・特集

ヒロシマ60年 記憶を刻む 第2部 聞こえなかった原爆 <1> 空白の10年間

■記者 木ノ元陽子、野崎建一郎

空白の10年間 爆風の正体知らぬまま

高夫(たかぶ)勝己さん(74)=広島市東区

 60年前、未曾有の被害をもたらした原爆。そのすさまじい音が、聞こえなかった人たちがいる。静寂の中、想像を絶する光景を記憶に刻んだ被爆ろう者は、言葉で体験を伝えられないもどかしさを抱えながら、戦後を生きてきた。広島で原爆の威力にさらされた約140人(「被爆ろう者を偲(しの)ぶ会」調べ)のろう者も今は50人足らずになった。手話通訳者を介し、あの日をたどる。

 「原子爆弾」。あの爆弾の正体を知ったのは、投下から10年がたっていた。1955年。完成したばかりの原爆資料館がすべてを教えてくれた。ぐにゃりと溶けたラムネ瓶。やけどで皮膚が垂れ下がった人の絵。同じだ。あの時、自分の目で見た光景と、同じだ。

 「きのこ雲」の写真に目を奪われた。そうか。自分は、この下にいたのか―。そして悟った。たった1発の爆弾が、多くの命を奪ったことを。あらためて恐怖に震えた。何か胸のつかえが取れた気がした。

 14歳だった。広島駅近くの駄菓子屋で、生まれたばかりの子犬をなでていた。突然、黄色い光が走り、爆風を受けて気絶した。恐る恐る目を開ける。何も見えない。さっきの光で、目が見えなくなったのか。暗闇と静寂。恐ろしくて「おかあさーん」と2度呼んだ。

 高夫さんは、語りの手を止めた。もどかしそうに、かばんから古びた紙の束を取り出した。チラシの裏にマジックで書いた文字。「閃光(せんこう)」「瞬間」「吹き飛ばされる」…。紙芝居のように順番に並べる。「これを見ながら聞いて」。そして、再び語り始めた。

 そう、あの日。暗闇が、ゆっくりと白んできた。自分は、民家の壁に打ち付けられていた。もとにいた場所から九メートルも離れた所に。黒い雨が降ってきた。何が起きたのか。なぜここにいる? 分からなかった。

 家の下敷きになったおばあさんが、首だけ出して叫んでいた。口が「タスケテ」と動いていた。何もできず、その場から逃げた。顔が膨れ、性別すら分からない人が水を求めてうごめく。防火水槽に折り重なって死んでいる人たち。男の人が長い棒に死体を引っ掛けて集めていた。

 「すごい爆弾が落ちたんだ」。自分なりに見つけた答え。でも、なぜ私は9メートルも離れた場所に吹き飛ばされたのか。空襲なら、地面に跡が残るはず。あの日、いったい何発の爆弾が、どこに落ちたのか。

 家族にも聞けなかった。母や妹は手話で複雑な会話はできない。読み書きは苦手で、漢字の多い新聞は難しかった。原子爆弾とは何なのか。資料館で全容をつかんだ時、自分の「戦後」が、やっと始まった。

 紳士服の仕立てをしながら家族を守ってきた。50歳にさしかかったころ、小学生や修学旅行生に被爆体験を少しずつ伝え始めた。「ろう者は体験を胸に閉じ込める人が多い。それは聞こえないから。話せないから」。でも自分は伝えたい。手話で、紙に書いて、体に刻んだ苦しみ、悲しみを子どもたちに伝えたい。

 「もう2度と原爆など使わないでほしい。平和な世界がいつまでも続きますように」。カレンダーの裏に、手話通訳者に代筆してもらったメッセージ。証言の最後に必ず見せる。広げては畳んで、を繰り返したその紙は、すっかりくたびれていた。

(手話通訳・河合知義さん、松本悦子さん)

(2005年7月17日朝刊掲載)

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