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連載・特集

ヒロシマ60年 記憶を刻む 第2部 聞こえなかった原爆 <2> 母の悲しみ

■記者 木ノ元陽子、野崎建一郎

母の悲しみ 髪もまゆも燃えていた

松下キリノさん(83)=広島市安佐南区

 「娘が泣いてる」―。背中に伝わる振動で、それが分かった。火のついたように激しく。振り返れなかった。広島駅前で熱線を浴び、自分も首から肩、腕、足と、左半身に大やけどを負っていた。

 実家があった広島市南区青崎まで、懸命に走った。背中から娘を降ろす。別人だった。顔中が赤くふくれあがり、髪もまゆ毛も燃えていた。うっすらと目を開け、ガタガタとけいれんを起こしていた。

 「忘れた。もう、忘れた」。2歳で逝った長女美代子ちゃんの最後を、松下さんは語りたがらない。でも、生前の姿を語る時、指の動きは滑らかになった。「この子は言葉が早いねえ」と周りが驚いていたこと、大人の雨げたを上手にはいて歩き回っていたこと…。

 耳が聞こえない母に空襲警報を知らせるのは、美代子ちゃんの役目だった。母の元に走り寄り、肩をたたき、空を指さしながら防空ずきんをかぶれとせかした。老いた母の心には、今もいとし子が宿る。おかっぱの、ふっくら顔の2歳のままで。

 「美代子が歩く姿を主人に見せたかった」。60年前の8月6日。娘を連れて朝早くに中区江波の自宅を出た。倉敷市水島の海軍航空隊の建物の撤去作業中に爆撃に遭いけがをし、現地の海軍病院に入院中の夫に会いに行くところだった。

 美代子ちゃんがハイハイを始めたころ、同じろう者で大工の夫は水島へ。歩き回るまでに成長した娘を見たら、夫はどんなに感激するか―。前の日、奮発して娘を美容院へ連れて行った。

 娘を背負い、着替えや水筒を体にくくり付けて、広島駅前で路面電車を降りた。そして、ほんの2、3歩…。

 目の前が赤く光り、爆風に吹き飛ばされた。白い煙がわき上がり、何も見えない。体が熱い。少しずつ、視界が開けてきた。乗ってきた電車がぐにゃりと曲がっている。がれきの山。うごめく人々。青崎の実家にたどり着いた時、父は、すぐに自分の娘と分からず、服の柄で悟った。

 手話が途切れる。松下さんの顔から表情が消えた。「娘は死んだ。2日後に」。自分も床に伏していた。抱いてやることもできなかった。みとることもできなかった。

 戦後、2人の女の子に恵まれた。「必死になって育ててくれた。耳が聞こえない分、母は人一倍頑張った」。二女の美鶴さん(58)と三女信子さん(55)は思う。貧しかったけれど、和裁で家計を支え、手縫いのワンピースを着せてくれた。

 時折、母は亡き姉を思い出しては涙を流した。「死にたい」と、首をつる手ぶりをしたこともある。「一緒に泣くことしかできなかった。亡くなった父にも私たちにも、母の悲しみを埋められなかった」

 松下さんは、首から肩にかけてのケロイドの跡をなでた。そして、娘の遺影をなでた。「忘れてはならない。戦争はだめ。原爆はだめ」。毅然(きぜん)と訴える。戦後をがむしゃらに生きてきた、その手で。

(手話通訳・國近洋子さん)

(2005年7月18日朝刊掲載)

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