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連載・特集

ヒロシマ60年 記憶を刻む 第2部 聞こえなかった原爆 <3> 生きる試練

■記者 木ノ元陽子、野崎建一郎

生きる試練 独りぼっち 働き抜いた

不破貫二さん(75)=東広島市

 母の顔を知らない。自分を産んですぐに死んでしまったから。父の愛を知らない。自分を置き去りにして、継母とどこかへ行ってしまったから。息つく間もなく、がむしゃらに生きてきた。苦しみが多い、半生だった。

 隣家の畑を耕し、その賃金でろう学校へ通わせてくれた祖母も、10歳の冬に他界。独りぼっちになった少年は学校をやめ、広島市内のげたの工場に住み込みで働いた。

 「努力の人。彼のまねはできない」。古くから不破さんを知るろう者は言う。大八車でげたを運んだ。雨の日も、雪の日も、休むことなく―。少年は1人で、試練と闘っていた。

 賃金をもらったことはない。いつも店主の残り物を食べていた。今なら「犬じゃないんだ」と怒りがわく。でも、当時はそれが当たり前と思っていた。

 聞こえないし、字も読めない。「権利」なんて言葉を知ったのは、年をとってからだ。仕事の道すがら、拾った5円で買った焼き芋の味を、今も忘れない。そんな日常の中、「あの日」はやってきた。

 空襲から逃れるため、店主は孫娘を己斐の山手に避難させていた。その子の元へ、毎朝、牛乳を届けるのが不破さんの日課だった。

 あの日の朝も牛乳瓶を大事に抱いて、路面電車で己斐の駅を降りた。しばらく歩いた、その時。稲妻のような光が走った。貨物列車の陰になり、死は免れたものの、左肩に大やけどを負い、肉がえぐられた。痛みで意識が遠のく。だが少年はわれにかえり、青ざめた。

 衝撃で、牛乳瓶を落としていた。ふたが外れ、半分ほどこぼしてしまった。どうしよう。このまま届けなかったら泥棒と思われる、店をクビになる―。少年は、瓶にふたをして立ち上がった。

 体が熱い。近くの川で、肩に水をかけた。何度もかけた。そして、必死に山を登った。死体が折り重なる光景より、生きるすべを失うことの方が怖かった。

 やっと届けた牛乳は店主の娘に汚いものでも扱うように「飲ませられん」と捨てられた。やけどにはしょうゆを塗ってくれた。痛みで眠れない夜が続いた。15の夏だった。

 不破さんは、ぼろぼろの聖書を見せてくれた。手あかにまみれ、鉛筆でたくさん線が引いてある。33歳で、キリスト教に入信した。「さみしくて苦しい人生でしたね。重い荷物を降ろしなさい。あなたを休ませてあげましょう」。ろうの宣教師が手話で語りかける言葉が胸に染みた。とめどなく涙が出た。

 戦後、材木加工や下肥の収集運搬などをこなし、働き抜いて、訪れた老後。「今は幸せ」と、不破さんは繰り返し、言う。同じろう者の妻春子さん(73)と市営住宅で暮らしながら、聖書で字を一つずつ覚えている。

 庭先には夏野菜が植えてある。「本で栽培方法を調べた」と言って照れた。トマトが赤く熟れていた。

(手話通訳・唐澤美加さん)

(2005年7月19日朝刊掲載)

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