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連載・特集

ヒロシマ60年 記憶を刻む 第2部 聞こえなかった原爆 <5> 先輩の遺言

■記者 木ノ元陽子、野崎建一郎

先輩の遺言 被爆者調べ慰霊碑建立

吉上巌(よしがみ・いわお)さん(71)=広島市中区

 91人―。これまでに調べ上げた被爆ろう者の死者数だ。先輩の悲願を引き継いで関係者を訪ね歩き、ようやく2年前に判明した。埋もれていた被爆ろう者の実態に初めて一筋の光が当たった。

 「原爆で亡くなったろう者を弔う碑を建ててくれないか」。1992年秋、広島市内であった高齢ろう者の集い。親交が深かった掛谷長助さん=南区、当時(90)、1993年死去=に手を合わされた。いつになく神妙な顔つきだった。

 老いさき短いことを知った掛谷さんのいわば、遺言だった。「ろう者が犠牲になった事実と悲惨さを継承する必要があると思うんだ」。原爆で同じろう者の妻を失った先輩の、ゆっくりだけれど熱のこもった手話に、思わずうなずいた。

 楽な作業ではなかった。公的な資料がなく、ろう者の被爆状況は判然としなかった。資金のめども付かない。同じ理由で、掛谷さんたちは45年前、復興に伴い市内に次々と建つ他の慰霊碑を尻目に断念していた。

 「何から手をつけたらいいのか」。見当もつかなかった。でも、あきらめたくなかった。学童疎開していた広島県吉田町(現安芸高田市)から山越しに見たきのこ雲、投下から6日後に中区榎町の自宅に戻って見た何体もの黒こげの死体…。「入市だが被爆の惨状を体験した者の務め」。そう言い聞かせた。

 転機は2001年。話を聞いた手話通訳者の仲川文江さん(65)から協力の申し出を受けた。連絡や交渉の支援を受け「被爆ろう者を偲(しの)ぶ会」を結成。1軒ずつ遺族宅を訪ねて話を聞き、被爆者健康手帳を持つ人を探して歩いた。手話サークルなどを通じ、カンパの輪も広がった。

 手帳所持者の49人からは、被爆時の様子やその後の人生も聞いた。情報不足、生活苦、閉ざされた周囲とのコミュニケーション…。聴覚障害があるがゆえ、被爆の上にさらに重なる苦労を抱えた人が多いと感じた。

 被爆者健康手帳を取りそびれたままの人が何人もいる。読み書きが苦手で市からの案内に気付かなかったり、証人探しなどを補佐してくれる手話通訳者も周りに少なかったりしたためだ。木工や和裁など、ろう者が就ける職業は限られ、その多くが低賃金だった。

 「戦後まもなくは普通の会社に入れず、施設で働くろう者が多かった」。11日、母校の県立ろう学校(広島市中区)で戦争と原爆をテーマに手話で講演した。被爆状況にとどまらず、当時の暮らしぶりを紹介したのは「福祉の充実も平和があってこそ」と伝えたかったから。

 先輩に背中を押された慰霊碑は2003年8月、県立ろう学校の校庭に完成した。講演のほか、体験を手話で語るビデオ撮影の依頼にも積極的に応じる。「思いのバトンを引き継いだ若い人たちが、きっと平和な世界づくりの輪を広げてくれる」。そう信じる。

 講演の後、生徒と碑の前で合掌した。「私の役割は果たせましたか」。心の中で、掛谷さんに問い掛けた。

(2005年7月21日朝刊掲載)

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