×

連載・特集

ヒロシマ60年 記憶を刻む 第3部 追体験 <2> 翌日の死

■記者 宮崎智三、桜井邦彦、門脇正樹、加納亜弥

翌日の死 聞きそびれた苦悩 訪ね

 駅前の人込みは、傘をぶつけながら行き交っている。広島市立国泰寺中1年の永谷唯さん(12)=中区=は雨の日曜日、JR広島駅そばの広島東郵便局(南区)前にいた。あの日、東から西へ飛ぶB29爆撃機が見えたという。「あまり想像できん」。雨空を見上げてため息をつき、半年前に聞いた被爆証言を思い出そうとした。

 2月の大雪の日だった。本川小(中区)六年生だった永谷さんは学校の平和学習で、近くに住む米田美津子さんから、東郵便局の前で熱線を浴びた体験を聞いた。

 証言の翌日、米田さんは突然、75歳で亡くなった。後日、それを聞き永谷さんは思った。自分は緊張していて、あまり質問できなかった。米田さんは何を伝えたかったのだろう。

 「米田さんのこと、知らなくちゃ」。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)に行ってみた。膨大な資料の中に米田さんの手記を数編見つけた。東郵便局に動員されていたのは、祇園高等女学校(現祇園高)4年生たちだった。

 「フラフラと局の前迄(まで)くると、常田さんも広範囲の火傷で立って『土井さんが、土井さんが』と言っていました」

 「常田さん―」。常田栄さん(76)の消息はすぐに分かった。安佐南区の自宅を訪ねてみると「思い出したくもないのに。一人じゃあよう話さん」。級友の野間知枝さん(75)=中区=を呼び寄せていた。米田さんの手記に出てくる旧姓「土井さん」だった。

 「米田さんは人気者で都会的で、ちょっとワルでね。あの日も少し遅れてきたのよ」。2人の話では、ピカを浴びたのは、郵便局の玄関横のポンプで水を飲もうとしている常田さんたちに、米田さんがあいさつしかけた瞬間だった。

 ふうん。明るい人だったんだ。あの雪の日、せき込んできた姿からは想像できなかった。永谷さんはそう思った。

 「米田さんは一番やけどがひどかったね」。顔から首にかけて熱線に焼かれたという。

 「そう言えば、『青春って何?』という言葉が一番嫌い、と米田さんは断言していたっけ」

 2人と別れ、永谷さんは被爆者のケロイドの写真を見た。石を投げられ、「お化け」とからかわれ、うつむいて逃げたという米田さんのことを思った。

 「何で言い返さんかったんだろう」。女学生時代の米田さんは明るい性格だったはずなのに、その姿を追いかけるほどに次の疑問が浮かぶ。「どこまで原爆を知ればゴールなのか、分からなくなった」

 一方で永谷さんには達成感もある。証言を読んだり、級友に会ったりして、米田さんとの距離が縮まったように思う。自分たちに伝えようとしていたことも、おぼろげに分かりそうな気がする。

 あの雪の日、米田さんは一生懸命に語ってくれた。きちんと「ありがとう」と言わなかったことが、悔しい。

(2005年7月26日朝刊掲載)

年別アーカイブ