×

連載・特集

ヒロシマ60年 記憶を刻む 第3部 追体験 <4> きずなの調べ

■記者 宮崎智三、桜井邦彦、門脇正樹、加納亜弥

きずなの調べ 女学生のピアノ再び

 米国製アップライト型のピアノには、原爆の爆風で砕けたガラスの破片が刺さったままだ。見るたびに日本語教師の須藤とみゑさん(56)=広島市西区=は、3つ編みの髪を揺らしながら「子犬のワルツ」を奏でる少女を思い浮かべる。昨年秋にピアノを引き取ったとき、おぼろげだった少女の姿。次第に鮮明に、息づき始めてきた。

 河本明子さん。19歳の広島女学院専門学校(現広島女学院大)3年生。八丁堀(中区)にあった広島税務署に動員されていて被爆した。爆心地に約1キロと近く、全身やけどを負った。ピアノがある三滝町(西区)の自宅に戻ろうとして、近くにうずくまっているところを発見された。

 翌日、「マミー、トマトが食べたいよ」と言いのこし、家族にみとられながら、息絶えた。

 もともとは両親が米国に滞在中、子に恵まれない寂しさを埋めるためにピアノを買った。その後に誕生した明子さんが、鍵盤と戯れた。

 須藤さんは、明子さんの母シヅ子さんと近所付き合いをしていた。ピアノを大事に守って戦後を生きた母は、早世した娘の多くを語ろうとはしなかった。今年3月、103歳でシヅ子さんが亡くなると、あせた音ばかり奏でるピアノを引き取り、明子さんの歩んだ人生とともに復活させることが、須藤さんの友への弔いとなった。

 糸口はあった。明子さんがのこしていた日記。「音楽で『早春のうた』っての習った。私このふし大好き」「岡崎さんのピヤノったら(中略)やわらかになめらかにとてもすばらしかった」

 何時間も日記を読み込む須藤さんの目に、ある一文が留まる。「学校のかえりに先生の家へピアノを習いにいきました」。自分も幼少時代に手ほどきを受けた教師だった。明子さんは姉弟子。「そこで河本家の物語を伝える使命感が強まったの」

 復活コンサートは8月3日、広島市内で開くことに決めた。その告知記事が新聞に載ると、母娘の知人からの連絡が続々と舞い込んた。米国滞在中の知り合い、明子さんの級友、家の下宿人…。

 須藤さんは1人ずつ何時間も話を聞いた。明子さんの父源吉さん=1989年に100歳で死去=は学徒動員を批判していたこと。あの日、明子さんが父の反対を押し切り動員先に向かったのは、友人と会う約束していたためだったこと。そして変わり果てた姿で自宅に戻った明子さんは、両親に「ごめんなさい」と繰り返したこと…。ピアノを囲む家族の姿が、徐々に輪郭を現していく。

 須藤さんは今、明子さんの遺品や写真を整理し、コンサート会場で流すビデオを準備している。「ここまで頑張るとは思わなかった」。作業を手伝う元放送局社員、高野亨さん(65)=東区=の軽口にも照れず、手を休めない。

 コンサートで鍵盤に向かうのは、明子さんの弟の孫娘(10)。家族のきずなと原爆のつめ跡を一身に受けたピアノが、平和の調べを再び紡ぎ出す。

(2005年7月28日朝刊掲載)

年別アーカイブ