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連載・特集

ヒロシマ60年 記憶を刻む 第3部 追体験 <6> CGの空気感

■記者 宮崎智三、桜井邦彦、門脇正樹、加納亜弥

CGの空気感 元住民と「被爆前」再現

 窓から差し込む太陽の光で、調度品は微妙に色合いを変える。画面に描かれる緻密(ちみつ)なコンピューターグラフィックス(CG)を見ながら、被爆者の中沢昭夫さん(78)=広島県府中町=は、記憶の底にある戦前の茶の間の風景を絞り出す。「ちょっと違うかのう。口で表現せえ言われても、難しいんじゃが」

 広島市安佐南区、市立大の研究室。大学院生の三輪映さん(22)=同区=が、かすかに首をひねってパソコンのキーボードをたたいた。「僕は同じ風景を見ることはできない。あの時代の空気感というか、その表現が難しい」。画面の色を少し明るくしてみた。

 原爆の爆心の直下に、細工町は広がっていた。現在は中区大手町1丁目と名前を変えたその一角に、中沢さんが幼少期を過ごした実家「クラブ化粧品」があった。

 「こせこせしてなくて平和な町じゃった。元安川でシジミやエビを捕ってよう遊んだ」。見上げればいつも、広島県産業奨励館のドーム型屋根があった。路地で鬼ごっこした。表通りは病院や郵便局が軒を連ね、静かなたたずまいだった。

 奨励館の屋根の骨組みを残し、原爆は町を焼き尽くした。特攻兵として広島を離れていた中沢さんが終戦直後の8月19日に帰郷してみると、一緒に遊んだ友の死の知らせが待っていた。

 その細工町の被爆前の町並みを3次元CGで復元しているのが、産学官プロジェクト「ヒロシマ・グラウンド・ゼロ(爆心地)」。市立大などの大学や映像制作会社が協力し、ハイビジョン作品として今年秋の完成を目指す。中沢さんたち元住民の証言を基に記憶を形にしていく試みは、原爆の非人道性を浮かび上がらせる狙いがある。

 市立大研究室で中沢さんは「たびたび直してもろうて申し訳ない」と三輪さんに頭を下げた。「大丈夫。映像は記憶に近づいてきとるよ」

 卒業した先輩から今年四月にCG作業の一部を引き継いだ三輪さん。神戸市出身で、原爆への特別な感情はなかった。被爆体験を聞いたこともなかった。六十年前の生活感をどう画像に織り込むか―。部屋全体と机の大きさのバランスとか、家具の色合いとか、細部にこだわるしかないと考える。画像を作っては直す作業を丹念に続ける。

 映像制作会社社員の米田千春さん(25)=西区=は、元住民たちの聞き取りを担当する。これまでに約20人から被爆前後の町の様子を聞いた。

 苦労して捜し出した証言者に「どうせ風化する」と断られたこともあった。会うたびに記憶が薄れる人もいる。「記憶を残すための鍵となる人たちが老いていく。それは怖いこと。今でなければ、CGはできない」

 聞き取りを通じて米田さんは、世代の差を超えて誰もが共感するのは「愛する人を奪われた痛み」と気付いた。それなら自分の言葉で記憶を代弁できるかもしれない。そう思い始めている。

(2005年7月30日朝刊掲載)

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