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連載・特集

被爆65年 「黒い雨」に迫る <1> 線引き

■記者 明知隼二

数十メートルの差 援護なく

 被爆65年の今になっても、原爆投下直後に降った「黒い雨」の全容は解明されていない。なのに国は、大雨と小雨とに降雨域を分け、どちら側にいたかで援護に差をつけている。その線引きは事実と異なり、理不尽だと体験者は訴える。いったい雨はどこにどう降ったのか、科学者たちの解明努力も続く。黒い雨の真実に迫ろうとする人たちの姿を追う。

 細い坂道が、住宅や田畑の間を縫って縦横に走る。原爆の爆心地から北へ約10キロ、広島市安佐南区上安地区。こんもりとした木々に覆われた丘が、西隣の高取地区との境界だ。

 「昔はこんなに木もなくて高取を見通せたね」。今も近くに住む曽里サダ子さん(71)が、幼なじみの上西栄子さん(71)=安佐南区八木=と懐かしみ、言葉を継いだ。「この丘の向こうでは大雨が降り、こちらは小雨だったと国は言う。でも、そんなことがあり得るでしょうか」

 国は1976年、原爆投下当時の安村(現安佐南区)のうち西側の長楽寺と高取を「健康診断特例区域(黒い雨の大雨地域)」に指定した。一方、小雨地域とされたのが東側の上安と相田地区。現行制度上、大雨地域でなければ援護は何もなく、住民は8年前、「上安・相田地区黒い雨の会」を結成して指定地域拡大を求めてきた。

 だが、進展はない。会の清木紀雄会長(70)=安佐南区相田=は「私たちはただ『上安でも大雨が降った』という事実は曲げられんと言っとるだけなんですがね」と納得のいかない胸の内を語る。

 曽里さんは当時、安国民学校(現安小)1年生。上西さんとの下校途中、黒い雨を浴びた。「急に空が暗くなったと思ったら、ザーッと降ってきてね」。慌てて近くの農具小屋に駆け込んだ。白いブラウスや互いの顔は「泥をかぶったように黒く汚れていた」と上西さん。

 当時、脱毛や下痢などの急性症状はなかったものの、曽里さんは40代半ばから貧血や高血圧に悩まされ、48歳で子宮筋腫(きんしゅ)を患った。さらに58歳で大腸がんを手術した際、黒い雨でも被爆者健康手帳が取得できると知り、区役所に相談した。小雨地域は対象外だった。

 曽里さんの当時の自宅は高取までほんの数十メートル。「どうして差があるんですか」。会の設立当初から中心的な役割を担ってきた。だが、地域拡大を認めない国のかたくなさに疲労の色は隠せない。

 安国民学校に収容された被爆者たちのうめき声は、今も曽里さんの耳から離れない。「生きさせてもらっているだけで幸せだと分かってはいるんです。でも、また病気が出るんじゃないかと…」。昨年12月に見つかった肺気腫の治療が続く。不安がいっそう募る。

(2010年7月5日朝刊掲載)

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