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連載・特集

被爆65年 「黒い雨」に迫る <2> 一人の挑戦

■記者 明知隼二

丹念に調べ雨域4倍

 2冊の大学ノートをめくると、独自調査で割り出した「黒い雨」の降雨状況が地区や集落ごとに細かく書き込んであった。「後世の批判に耐えられるよう綿密に調べました」。元気象研究所研究室長の増田善信さん(86)=東京都狛江市=が四半世紀前を振り返る。

 1985年だった。原水爆禁止世界大会の会場で、黒い雨の体験者から質問を受けた。「雨は、あんなにきれいな範囲で降るものですか」。国が1976年に指定した健康診断特例区域(黒い雨の大雨地域)や小雨地域が、いずれも整った卵形をしていることへの素朴な疑問だった。

 はっとした。個人でこつこつ調べ始めた。2年にわたって被爆体験手記をひもとき、黒い雨の記述を探した。1987年には現地調査に入り、千人を超えるアンケートもした。

 そうして「黒い雨の雨域は従来の約4倍」との調査結果を発表した。1988年だった。

 だが国は動かない。「被爆地域の指定は科学的・合理的な根拠のある場合に限定するべきである」―。1980年に厚生相(当時)の諮問機関、原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)が出した答申が壁となっていた。

 もともと国の指定地域の基礎になったのは1945年8~12月、当時の広島管区気象台の宇田道隆技師らが実施した聞き取り調査だ。増田さんは「終戦直後の状況の中で最善の調査」と評価する。しかし幅約15キロに及ぶ小雨地域の北側の円弧がわずか3個のデータを基に決められているなど、調査範囲やデータ数などの面で「限界」があると指摘する。

 しかし、増田さんの後に続く科学的な根拠は出てこなかった。広島県と広島市が1988~91年に設置した「黒い雨に関する専門家会議」の土壌調査でも、黒い雨に由来する残留放射性物質は確認できなかった。当時の気象シミュレーションも「降雨範囲は従来と同程度」との結論を出した。

 専門家会議の座長を務めた放射線影響研究所の重松逸造名誉顧問(92)=東京都目黒区=が振り返る。「国の『線引き』で切り捨てられたと感じる住民もおられるだろう。だが当時、地域拡大の根拠は出てこなかった」

 それでも、増田さんの自信が揺らぐことはない。黒い雨が降ったと証言する住民の言葉には「子どもがこの場所で遊んでいた」などの細かい描写がある。そうした細部に真実は宿るに違いないからだ。

 「政府は『科学』を盾に耳をふさぐのではなく、世界最初の被爆国として、黒い雨の実態を洗い直すべきではないのか」。老科学者は国の責任を問い続ける。

(2010年7月6日朝刊掲載)

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