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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第1部 カナダに生きて <1>

■記者 西本雅実

ロッキーの街 移住30年半生を語る

 セーラー服が、カナダのカルガリー国際空港ロビーにあふれていた。「修学旅行生も珍しくないんよ」。橘美沙子さん(66)は広島弁まじりで、その一団を見やりながら出口へと急いだ。

 ロッキー山脈への玄関口に当たるアルバータ州の最大都市カルガリー。8年前の冬季五輪開催地でもあった人口約72万人のこの街は、観光とともに、天然ガスや石油の資源供給地として発展を続ける。

 「カーの免許はあるけど、ドライブはいつもこの人がしてくれるの」。夫の溥(ひろし)さん(60)を紹介するうち、日系語とでも呼ぶべき言い回しが口を付いて出た。カナダ暮らしはちょうど今年で30年を数える。

 自宅までの道々。助手席から時折厳しい口調でこちらを見る。「もう原爆乙女でもないし、お涙ちょうだいになるのだったらご免だわ」。聞けば、両親が健在だったにもかかわらず、かつて「孤児」とも書かれたという。マスコミへの不信感がうずくのか。車中に注ぎ込む初夏の日差しはまぶしかった。

 日米市民の協力により1955年、広島から25人の独身女性が米国に渡った。原爆の熱線による忌まわしいケロイド手術のためである。旧姓神辺美沙子さんもその1人だった。左ほおに植皮の跡がうっすらと残る。左手の薬指と小指は内に曲がったまま。自由は今も利かない。

 25人には常に、「原爆」と「乙女」という全く相反する呼び名が付いて回った。1年余に及ぶ治療を終えて帰国した後も、心身の傷をえぐる名がのしかかる。やがて、大半が被爆体験を語るのを拒むようになった。

 「話すのが嫌だと言っているんじゃないの。原爆を受けたからこそ、だれにも負けまい、そうファイトして生きて来た。何よりそのことを分かってほしい。知ってほしいのよ」。いつしか、車はなだらかな丘陵地に広がる住宅街に差し掛かっていた。

 芝生に白の外壁が映える自宅は、約4500平方メートルの敷地に建つ。2つの寝室に居間や食堂、ふろ、それらと同じ広さがあるカナダ独特のベースメント(地下室)が付く。2年前、15万カナダ・ドル(約1100万円)で購入したという。

 それまでは、東へ約1300キロ離れた、カナダ中央部マニトバ州のウイニペグで暮らしていた。そこが、夫妻のそれぞれの移住先であり、出会いの場でもあった。カルガリーへ移ったのを機に、3つの国で免許を取った美容師を退き、夫も勤めていた旅行社を今年に入り辞めた。

 「元気なうちに人生をエンジョイしないと、損じゃない」。ソファにくつろぐと、そう笑みを浮かべた。広島から2度の渡米を挟んでカナダへ。半生を語る口調はしだいに熱を帯びる。

 「8・6」が巡り来る。米国で「ヒロシマ・ガールズ」と呼ばれた被爆者たちの軌跡を追う。被爆から半世紀を超えたヒロシマを生き抜いた女性、歴史の証言者として・。

(1996年6月17日朝刊掲載)

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