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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第1部 カナダに生きて <3>

■記者 西本雅実

戻った笑み 渡米治療心身いやす

 米空軍機C54のタラップで、見送りの家族らに手を振る表情は硬い。その写真に目を落とすと、橘美沙子さん(66)は「少しでもきれいになるんだったら。すがるような気持ち…」。期待と不安が入りまじる旅立ちをそう表した。

 18歳から31歳の独身女性25人は1955年5月5日、日米の医師らに付き添われて米軍岩国基地から飛び立つ。目的地は約1万2千キロかなたのニューヨーク。太平洋の島沿いに5日がかりの空の旅だった。

 原爆医療法制定(1957年)の呼び水にもなった「渡米治療」は、広島流川教会の谷本清牧師(1986年死去)と、原爆孤児の「精神養子」運動も手がけ、後に広島市特別名誉市民となるノーマン・カズンズ氏(1990年死去)が提唱した。原爆を投下した「旧敵国」での治療。被爆者の一部からは冷ややかな声が上がった。しかし、1年半に及ぶ治療は、一貫して日米の民間の協力と奉仕でなされる。

 ケロイドの形成手術は、ユダヤ系市民が1852年に創設した「マウント・サイナイ病院」が引き受ける。入退院の間、彼女たちを2人1組で家庭に引き取ったのは、「非戦」の誓いを貫くクエーカー教徒たちだ。

 「地味だけど人としての輝き、素晴らしさにあふれていた。まるで実の娘のように扱ってくださったの」。書棚に大切にしまっていたアルバムを繰りながら、思い出が走馬灯のようによみがえる。10軒を数えたホストファミリーでのエピソードを語る声が弾んだ。

 ホスト夫妻の名前を呼び捨てにできず、「パパさん、ママさん」と言い続けたこと。釣り好きのパパさんに、タイの刺し身と残った頭でスープをつくり、「スマート(賢い)」と手放しで褒められたこと。移植する皮膚で、顔と手がつながった姿のまま病院から戻ると、幼い兄弟がそばを離れようとしなかったこと…。

 言葉は分からなくても、そんな小さな出来事、触れ合いが心を揺さぶる。琴線に響く。渡米前はあれほど嫌だった写真がいつしかアルバムができるほどになり、笑顔で飾っていった。

 病院には、大戦中はキャンプ(収容所)生活を強いられた日系人が、故国の味を携えて見舞いに訪れた。手術の安否を気遣う親たちに代わって、広島から付き添った米国生まれの横山初子さん(87)=広島市西区=の献身が身に染みた。「殻に閉じこもらず、強く生きなくてはと言い聞かせるようになったの」

 渡米からちょうど1年後。麻酔事故で仲間の1人=当時(25)=が亡くなる。その直後に手術が控えていた。関係者の衝撃と不安、気遣いが痛いほど感じられた。ためらわず手術台に上がった。病院に駆けつけたカズンズ氏は、両手を握り締めて「サンキュー」と涙した。

 原爆で傷ついた左手とほおの形成手術は、都合9回に及んだ。しかし、骨まで焼けていた薬指と小指の機能は回復しなかった。

 「多くの人たちの真実の愛に触れて生きる喜び、勇気を取り戻せたの。そのことの方が大きかった」。帰国すると、温めていた夢に早速に踏み切っていく。

(1996年6月19日朝刊掲載)

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