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連載・特集

被爆65年 ヒロシマ基町 第1部 3人の軌跡 <1>

■記者 増田咲子、新田葉子

悲報 体験語らずに去った友

 広島市中区基町の高層アパート群は、原爆の爆心地から北へ約1キロ。一瞬にして廃虚と化したあの日から、このヒロシマの一角で、人々は新たな営みを築いていった。平穏な日常を取り戻そうと懸命に生き、復興の歩みを刻んできた。思い出したくない過去にあえて向き合い、あるいは胸の奥に封じ込め、65年の歳月を重ねてきた。そんな被爆者たちの軌跡をたどる。

 広島県が梅雨入りした6月13日。広島市中区基町の高層アパートに暮らす一人の被爆者が、79歳の生涯を閉じた。

 三上節子さん。肺がんだった。看護師の孫娘が勤める市内の病院で最期を迎えた。

 「ほんと、寂しゅうなる…」。同じ高層アパートの住民、宇野静子さん(86)と増井竹代さん(91)が、友の悲報に声を詰まらせる。3人とも長い間、このアパートで暮らしてきた。夫に先立たれ、子どもが独立するなどし、そうして最近は一人暮らし同士。声を掛け合い、支え合いながら生きてきた。

 宇野さんは、病気がちだった三上さんを毎日のように見舞っていた。骨粗しょう症を患い、階段の上り下りが難しくなると、電話をかけて安否を確認し合っていた。

 増井さんは三上さんと、アパート屋上の花壇を世話するうちに仲良くなった。しかし増井さんも背骨を圧迫骨折し、ここ数年間は外出も厳しい。三上さんの他界は、新聞の訃報(ふほう)欄で知った。

 6月末、三上さんの長女難波恵子さん(57)=東区=が、母の遺影を携えて増井さんの部屋を訪れた。久しぶりの「対面」に、宇野さんも加わった。

 難波さんが母の被爆体験を語り始めた。疎開先の山内西村(現庄原市)で、広島から逃れてきた被災者を救護していた。「ああ、そうじゃったん」。増井さんが友の65年前に思いをはせる。

 宇野さんは数年前を思い出す。ある日、骨折した三上さんがつぶやいた。「原爆手帳(被爆者健康手帳)があると助かるね」「実は私もなんよ」。2人が原爆のことを話題にしたのは、確かこの一度きりだ。

 それぞれが、進んでは口にしたくない「あの日」。遺影と対面し語り合ううちに、何とも言えぬ悔恨がよみがえる。

 出産で実家の豊栄村(現東広島市)にいた宇野さんは原爆投下の2日後、広島に残っていた夫を捜して入市被爆した。幼い長男も一緒だった。「あの日、私は広島にいなかった。それが悪いような気がしてねえ」

 増井さんが、ためらいがちに口を開いた。爆心地から2・3キロの皆実町(現南区)。崩れた自宅からはい出し、「助けて」の叫び声を振り切るようにして逃げたのだという。

 「私はひきょうなんよ。逃げたから。申し訳なくって」。増井さんが繰り返す。

 「謝ることはないですよ」。亡母の代わりに難波さんが、いたわりの言葉を掛けた。

基町地区
 戦前は軍施設が並び、原爆投下で焦土と化した。1946年、広島市などの戦災者向け木造住宅が完成したものの需要はまかないきれず、広島県と市が1956~68年度に中層アパート930戸を整備。さらに1978年まで10年かけ、2964戸の高層アパート群が完成した。市によると、今年3月末の地区の人口(外国人登録を含む)は5524人、被爆者は684人。

(2010年7月16日朝刊掲載)

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