×

連載・特集

被爆65年 ヒロシマ基町 第1部 3人の軌跡 <2>

■記者 増田咲子

閉じた箱 悲しい記憶刻んだ手記

 流れるような墨筆で、丁寧にしたためてある。

 「多くの苦しんでいる人たちを助けることもできず、踏み台にして助けてもらった命。すまないし、申し訳ない…」

 題は「原爆記」。広島市中区基町の高層アパートに暮らす増井竹代さん(91)がつづった。「原爆」と張り紙をした紙箱にしまい、ここ10年はずっと閉じたまま。

 「悲しみが詰まっているの。結婚式の思い出なら、何度でも開けるんだけど」。記者が無理を言い、読ませてもらった。

 26歳だった。朝、八丁堀地区(現中区)にあった石油配給統制会社に出勤しようと、皆実町(現南区)の自宅を出て路面電車の電停に向かった。ところが、なぜか、乗りたくない。自宅に引き返し、掃除をしようと仏壇の扉を開け、拝もうとした瞬間だった。大音響に包まれ、自宅は倒壊した。

 はい出ると頭は血だらけだった。手には数珠をかけたまま。「命を助けてもらった」

 間もなく、どこからともなく女性の声が聞こえてきた。「助けて、助けて」。だが、姿は見えない。戸惑う増井さんを周囲の叫び声がせきたてる。「ガス会社が爆発したんだ」「逃げろ、早く早く」。どうすることもできない。

 わずかな米などを抱え、母が疎開していた狩留家(現安佐北区)へと向かった。道すがら、やけどで皮膚が垂れ下がった人、血だらけの人とすれ違った。地獄のような光景に、足がすくんだ。

 歩き通して午後7時ごろ。母が迎えてくれた。「朝から広島の空を見よった。よう帰ったのお」。すがって泣き崩れた。

 宇品(現南区)の陸軍運輸部に勤めていた夫の照夫さん(1997年に82歳で死去)も無事だった。再会後、母の疎開先にひとまず身を寄せた。基町で市などの住宅建設が進んでいると聞き、その一角に建ったばかりの木造住宅に入居することができた。被爆の年の暮れだったと記憶している。

 「何年たっても、あの声は忘れられません」。そんな思い出したくない記憶を手記にしたのは、被爆から半世紀後の1995年。3人の孫と6人のひ孫に囲まれた今の暮らしに、つくづく「平和」を思うからだ。

 「この子らを悲しい目に遭わせたくない。生き残った者として、多くの犠牲の上にある平和を守り、伝えることが恩返しの一つ」

 それでも、あの日の悔恨が消えたわけではない。1991年から3年間、市内の原爆死没者慰霊碑をいくつも巡った。そのときの写真も「原爆」の箱に収めている。

(2010年7月17日朝刊掲載)

年別アーカイブ