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連載・特集

被爆65年 ヒロシマ基町 第1部 3人の軌跡 <3>

■記者 新田葉子

母は… 遺品で知った救護被爆

 被爆者健康手帳に、被爆した場所や月日は明記されていなかった。広島市中区基町の高層アパートに暮らし、6月中旬に79歳で他界した三上節子さん。直接被爆ではなく、被爆者を看護して放射線を浴びた「救護被爆」だったためだ。

 「広島から避難してきた被爆者を庄原で看護したんじゃろう」「広島市内で遺体を焼いたと聞いたけど」。家族にとっても、母の被爆状況はおぼろげだった。生前の三上さんが、65年前を詳しく語ったことはなかった。

 葬儀が終わり、長女の難波恵子さん(57)=東区=が遺品整理のため亡き母の部屋を訪れた。居間の窓際に置かれた黒柿のたんす。一番上の引き戸の奥から、手紙などと一緒に、1枚の証明書が出てきた。

 「下記の者は8月7日から約10日間、被爆者を看護、火葬する作業をした」。1945年、山内西村(現庄原市)にあった旧山内西国民学校(現山内小)高等科2年生の名簿。当時の担任教諭が救護被爆を証明していた。53人の最後に「宇山節子」と、旧姓の三上さんの名前があった。

 原爆投下後、旧山内西国民学校は広島陸軍病院庄原分院の臨時病棟になった。爆心地から直線で約70キロ。列車で運ばれてきた多くの負傷者を地元の住民や生徒たちが看護した。うち88人は帰らぬ人になったとの記録が地元に残る。

 「川で包帯を洗い、遺体安置所に花を手向けました。次々に亡くなられ、思い出せば悲しい」。三上さんの同級生だった土井テルミさん(78)=庄原市=がつらい日々を振り返る。

 7月初め、記者は難波さんを誘って国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)を訪ねた。収蔵された約13万編の手記の中に、三上さんの体験記もあった。1995年に追悼祈念館に寄せていた。

 「兵隊さんの体のウジ虫をピンセットで取りました」「今でもあの時の事は忘れられません」―。

 「母の字よ。やさしい字じゃ」。難波さんが食い入るように読み進む。「当時14歳。どんなにショックだったことか」

 三上さん家族は、1949年ごろから基町地区に暮らした。1976年ごろ高層アパートに移るまでは、現在の広島バスセンター北側に自宅があった。「原爆の日」を告げる毎年8月6日朝のサイレンの音を難波さんも覚えている。

 「母は『原爆で広島が壊滅したから進学できず、教師になる夢をあきらめた』と話していました」。難波さんは地元の大学へ進み、教員免許を取った。誰よりも母が、喜んでくれた。

(2010年7月18日朝刊掲載)

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