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連載・特集

被爆65年 ヒロシマ基町 第1部 3人の軌跡 <4>

■記者 増田咲子

息子よ 遺影に尋ねる死の真相

 広島市中区基町の高層アパート8階。被爆者の宇野静子さん(86)は時折、一人で暮らす部屋のベランダから眼下の基町高を眺める。

 長男澄夫さんの母校だ。「生徒たちを見ると、あの子を思い出す。あんなに早く死ぬとは思わなかった」。澄夫さんは1993年8月、心筋梗塞(こうそく)のため48歳で逝った。

 宇野さんはあの日、豊栄村(現東広島市)の実家で産後の養生中だった。原爆投下2日後、広島市で生菓子職人をしていた夫の秋信さん(1971年に54歳で死去)を捜すため、乳飲み子の澄夫さんを背負い、市内へ向かった。

 一面の焼け野原は、方向感覚を迷わせる。やっと西愛宕町(現東区)にたどり着くと、自宅は焼け落ちていた。その跡に、茶わんなどが入ったバケツがあった。触ると、崩れた。「広島におった者は、おおかた死んどる」。誰かの話し声が聞こえてきた。「夫は無事だろうか…」  不安と焦りが募った数日後、知人と一緒に逃げて無事だった秋信さんと再会することができた。

 家族はいったん郊外の民家に間借りした。1947年ごろ、秋信さんが基町にできたばかりの木造の市営住宅を見つけてきた。10軒が連なって1棟だったから、通称「十軒長屋」と呼ばれた。宇野さんは「やっと手に入れたわが家だもの。本当にうれしかった」と思い起こす。

 こうして始まった家族の戦後。だが、長男の澄夫さんは小学校の同級生と比べ、体が丈夫な方ではなかった。それでも原爆のせいなのかどうか、当時は考えなかったという。

 気になりだしたきっかけは、知人の勧めで宇野さんが被爆者健康手帳を取得した1981年だった。広島市の窓口の担当者に聞かれた。「小さい子と一緒だったんですか」。幼子を連れて入市被爆した自分が責められているような気持ちになった。

 中学生になると澄夫さんは元気を取り戻し、高校や大学ではサッカーやボクシングに汗を流した。就職し、結婚した。やがて独立して商売を始めた。

 しかし、仕事中に具合が悪くなり、自分で車のハンドルを握って病院へ向かった。途中、蛇行運転を見た人が不審に思い、救急車を呼んでくれた。病院に運ばれ、そのまま息を引き取った。

 「やはり息子の死は原爆と関係があるんでしょうか」。澄夫さんの他界から17年たつ今も、宇野さんは朝と晩、就寝前の毎日3度、仏壇に向かう。夫や長男の遺影に語り掛ける。一心に、念仏を唱える。

(2010年7月20日朝刊掲載)

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