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連載・特集

被爆65年 ヒロシマ基町 第1部 3人の軌跡 <5>

■記者 増田咲子、新田葉子

懸命に 「長屋」生活 助け合って

 キョウチクトウはこの夏も、濃いピンクの花を咲かせた。広島市中区基町、中央公園の一角。「この辺りかしらね。長屋暮らしのあのころが一番楽しかった」。近くの高層アパートに住む宇野静子さん(86)が木立の中で、懐かしそうに思い出す。

 一帯は1946年ごろから住宅が軒を連ねた。原爆で自宅を焼かれた宇野さんが移り住んだのは、一角にあった通称「十軒長屋」と呼ばれた公営住宅。狭いながらも生菓子職人だった夫秋信さん(71年に54歳で死去)の仕事場を兼ね、菓子を作り、問屋に卸した。

 富士山と日の出をあしらったようかん、桜の花をかたどった和菓子…。夫婦で徹夜することもあった。

 隣近所も被爆者や遺族が多かった。袖を触れ合って共同水道を使い、洗濯し、米を洗った。刈ってきた草を燃やしてご飯を炊いた。宇野さんの仕事場では20代の被爆青年「スミダ君」も働いていた。

 「物のない時代だったけれど、惨めではなかった。みんなの助け合いがあったから」と宇野さん。そんな基町に、友人の三上節子さん(6月に79歳で死去)や増井竹代さん(91)も住み着いた。

 三上さんは疎開先の現庄原市から新天地を求め、49年ごろ基町へ。広島バスセンター(中区)北側にあった家で、夫と紳士服店を営んだ。店は多い時で10人ほどの従業員を抱え、広島東洋カープの監督を務めた古葉竹識さんも訪れたという。

 「父の仕立ての腕が評判を呼び、店は忙しかった。幼いころ遊んでもらった覚えもないくらい」と長女の難波恵子さん(57)=東区=は笑う。その店の隣で母が飲食店を営んでいたという被爆者で基町に暮らす友田道枝さん(71)は「子守や店の手伝いをしましたよ。三上のおばちゃんや家族は、今も身内のようです」と振り返る。

 増井さんも戦後間もなく基町の木造住宅に入った。夫は会社に勤め、義母のモモヨさん(85年に92歳で死去)は魚店を構えて生計を立てた。「苦しい時代を生きてきたから、今の平和は夢のよう」とかみしめる。

 増井さんが庭にヤナギを植えたのは、少し南側に旧広島市民球場ができた57年ごろだった。自宅まで届くナイターの明かりやスタンドの歓声が、勇気をくれた気がした。

 歳月を重ね、自宅があった辺りは中央公園に。高層アパートに移った増井さんは、週2回のデイサービスに通う車中から、今も公園の片隅に立つヤナギを見守る。「すくすく育ったね」。風に揺れる大きな枝ぶりに、今の平和な世を思う。

(2010年7月21日朝刊掲載)

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