被爆65年 ヒロシマ基町 復興史映す街並み 戦災者支え近代化へ先駆
10年7月28日
■記者 林淳一郎
広島市中区の基町地区は、原爆投下からの復興史を色濃く刻む。終戦直後から多くの被爆者たちはここで生活の礎を築き、高度成長期には近代的な高層アパートが姿を現した。65年目の夏。住民たちの歩みと地区の復興をたどる。
高層アパート群を北西に見る広島城の堀端に、基町地区再開発事業完成記念碑が立つ。広島県と広島市が1978年10月に設けた。碑文は「地区の改良なくして広島の戦後は終わらない」と記す。
戦前は軍施設が占めた基町地区。原爆投下の翌1946年には戦災者向けの公営住宅が立ち並んだ。それでも住まいを求める人々を収容しきれず、旧太田川(本川)河川敷の約1.5キロ区間にはバラックなど無認可の住宅が密集した。1960年ごろには900戸に上った。
在日韓国人の郭文鎬(カクムノ)さん(60)=中区光南=は59年から、そうした住宅で暮らしたという。入市被爆した父をはじめ、木造平屋の3部屋に家族8人。「被爆者だけ、在日だけで固まることはなかった。それぞれが懸命に暮らしを築いていった」と振り返る。
住宅の老朽化もあって県と市は56年度から中層アパート計930戸を建設。さらに1968年から10年がかりで計2964戸の高層アパート群を造った。
河川敷のバラックでは、61~76年に14回計403戸が焼失する火事も起き、再開発を加速させた。
被爆者の岡ヨシエさん(79)は1951年から半世紀以上、基町に住み続けている。結婚後、今の広島市民病院西側にあった木造住宅に入り、再開発に伴って74年に高層アパートへ移った。
「ここには縁があるの」と岡さん。被爆したのも基町の一角、広島城内にあった地下壕(ごう)で学徒動員中だった。多くの級友を亡くした地でもあるが、「いつも友人の供養ができることに幸せを感じています」。戦後、生き残った級友と城内に植えた2本の木は今、見上げるほどに育っている。
びょうぶを配したように見える基町の高層アパート群は、復興の象徴でもある。高校卒業まで広島市内で暮らし、このアパートの設計に携わった建築家藤本昌也さん(73)=東京都=に、当時の思いなどを聞いた。
故郷での仕事だけに思い入れは強かった。1946年に中国東北部から広島へ家族と引き揚げた。基町にあった木造住宅に友人もいた。父は戦後、広島市住宅建設課に勤務。アパート建設時には父を知る人たちが市側の担当者を務め、何ともいえない縁を感じた。
私が勤めていた建築設計事務所が設計を担当した。国内では先駆的な高層化であり、建築とまちづくりの連動を重視した。3千戸も造らないといけないうえ、原爆で家を失った市民の受け皿のようになった地区だから、金をかけすぎて家賃に響いてもいけない。さらに快適さも追求する。かんかんがくがく議論した。
アパート群は8~20階建て。南側の海に向けて低くなり、広島城のある東側に向けても低くなる。天守閣に対し頭が高くてはいけないということ。当時の山田節男広島市長は欧州建築に理解が深く、デザイン性も求めた。そうでなければ、四角い箱を並べた姿になったかもしれない。
設計時からアパート群の「可変性」を考えていた。住人の高齢化にどう対応するか。そして爆心地に近い基町は、やはり鎮魂の場。太田川の流れ、よみがえった木々の緑…。今では、旧広島市民球場をどうするかという課題もある。
世界に平和を発信する広島だからこそ、100年計画で地区の今後を描いてもいいと思う。(談)
1945年 8月 原爆投下
1946年 6月 広島市が緊急住宅対策として通称「十軒長屋」を建設。市、県、住宅営団が計181
5戸を相次いで建設
1956年12月 都市計画決定された公園用地のうち13.25ヘクタールを住宅経営地区に変更し、
中層アパート建設計画を策定。68年度までに930戸(市営630戸、県営300戸)
が完成
1968年 5月 県、市が河川敷などにある「不良住宅」の解消と一帯の整備を目的に、基町地区再
開発促進協議会を設置
10月 県、市が基町地区の実態調査を開始。不良住宅は2600戸。2951世帯(8694
人)のうち、河川敷に1065世帯(2547人)が居住し、被爆者のいる世帯は全体
で955世帯(1347人)
1969年 3月 基町地区の計33.36ヘクタールが国の住宅改良地区として指定を受ける▽基町
地区の高層アパート群の第1期工事始まる
1978年 3月 県と市が不良住宅2600戸の除却を完了
7月 最後の第7期工事が終わり、計2964戸が完成
10月 基町地区再開発事業完成記念式
※「基町地区再開発事業記念誌」(広島県、広島市発行)などを基に作成
(2010年7月24日朝刊掲載)
広島市中区の基町地区は、原爆投下からの復興史を色濃く刻む。終戦直後から多くの被爆者たちはここで生活の礎を築き、高度成長期には近代的な高層アパートが姿を現した。65年目の夏。住民たちの歩みと地区の復興をたどる。
高層アパート群を北西に見る広島城の堀端に、基町地区再開発事業完成記念碑が立つ。広島県と広島市が1978年10月に設けた。碑文は「地区の改良なくして広島の戦後は終わらない」と記す。
戦前は軍施設が占めた基町地区。原爆投下の翌1946年には戦災者向けの公営住宅が立ち並んだ。それでも住まいを求める人々を収容しきれず、旧太田川(本川)河川敷の約1.5キロ区間にはバラックなど無認可の住宅が密集した。1960年ごろには900戸に上った。
在日韓国人の郭文鎬(カクムノ)さん(60)=中区光南=は59年から、そうした住宅で暮らしたという。入市被爆した父をはじめ、木造平屋の3部屋に家族8人。「被爆者だけ、在日だけで固まることはなかった。それぞれが懸命に暮らしを築いていった」と振り返る。
住宅の老朽化もあって県と市は56年度から中層アパート計930戸を建設。さらに1968年から10年がかりで計2964戸の高層アパート群を造った。
河川敷のバラックでは、61~76年に14回計403戸が焼失する火事も起き、再開発を加速させた。
被爆者の岡ヨシエさん(79)は1951年から半世紀以上、基町に住み続けている。結婚後、今の広島市民病院西側にあった木造住宅に入り、再開発に伴って74年に高層アパートへ移った。
「ここには縁があるの」と岡さん。被爆したのも基町の一角、広島城内にあった地下壕(ごう)で学徒動員中だった。多くの級友を亡くした地でもあるが、「いつも友人の供養ができることに幸せを感じています」。戦後、生き残った級友と城内に植えた2本の木は今、見上げるほどに育っている。
高層アパート設計に参加 藤本さんに聞く
高齢化見据え可変性考慮
びょうぶを配したように見える基町の高層アパート群は、復興の象徴でもある。高校卒業まで広島市内で暮らし、このアパートの設計に携わった建築家藤本昌也さん(73)=東京都=に、当時の思いなどを聞いた。
故郷での仕事だけに思い入れは強かった。1946年に中国東北部から広島へ家族と引き揚げた。基町にあった木造住宅に友人もいた。父は戦後、広島市住宅建設課に勤務。アパート建設時には父を知る人たちが市側の担当者を務め、何ともいえない縁を感じた。
私が勤めていた建築設計事務所が設計を担当した。国内では先駆的な高層化であり、建築とまちづくりの連動を重視した。3千戸も造らないといけないうえ、原爆で家を失った市民の受け皿のようになった地区だから、金をかけすぎて家賃に響いてもいけない。さらに快適さも追求する。かんかんがくがく議論した。
アパート群は8~20階建て。南側の海に向けて低くなり、広島城のある東側に向けても低くなる。天守閣に対し頭が高くてはいけないということ。当時の山田節男広島市長は欧州建築に理解が深く、デザイン性も求めた。そうでなければ、四角い箱を並べた姿になったかもしれない。
設計時からアパート群の「可変性」を考えていた。住人の高齢化にどう対応するか。そして爆心地に近い基町は、やはり鎮魂の場。太田川の流れ、よみがえった木々の緑…。今では、旧広島市民球場をどうするかという課題もある。
世界に平和を発信する広島だからこそ、100年計画で地区の今後を描いてもいいと思う。(談)
≪基町地区再開発の歩み≫
1945年 8月 原爆投下
1946年 6月 広島市が緊急住宅対策として通称「十軒長屋」を建設。市、県、住宅営団が計181
5戸を相次いで建設
1956年12月 都市計画決定された公園用地のうち13.25ヘクタールを住宅経営地区に変更し、
中層アパート建設計画を策定。68年度までに930戸(市営630戸、県営300戸)
が完成
1968年 5月 県、市が河川敷などにある「不良住宅」の解消と一帯の整備を目的に、基町地区再
開発促進協議会を設置
10月 県、市が基町地区の実態調査を開始。不良住宅は2600戸。2951世帯(8694
人)のうち、河川敷に1065世帯(2547人)が居住し、被爆者のいる世帯は全体
で955世帯(1347人)
1969年 3月 基町地区の計33.36ヘクタールが国の住宅改良地区として指定を受ける▽基町
地区の高層アパート群の第1期工事始まる
1978年 3月 県と市が不良住宅2600戸の除却を完了
7月 最後の第7期工事が終わり、計2964戸が完成
10月 基町地区再開発事業完成記念式
※「基町地区再開発事業記念誌」(広島県、広島市発行)などを基に作成
(2010年7月24日朝刊掲載)