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連載・特集

被爆65年 ヒロシマ基町 第2部 今なお <1>

■記者 林淳一郎

生と死と 遺体整理 むごさを痛感

 原爆の爆心地に近い広島市中区基町で、「あの日」をくぐり抜けた人たちが暮らす。被爆から65年。半生を振り返る人がいる。子や孫にようやく体験を語り始めた人がいる。家族で、あるいは被爆者同士で支え合う姿もある。第2部は、懸命に生きる被爆者それぞれの今を紹介する。

 横幅1.5メートルほどの額に軽やかな筆致の文字が躍る。広島市中区基町の高層アパート10階。入市被爆者の竹内達男さん(90)は、自筆の書を取り出し、相好を崩した。

 「我流じゃが、自信作の一つ。年をとってしもうて、最近は書いとりませんがのう」

 郷里の三原市から基町に移り住んで15年余りになる。50年間連れ添った妻が、同じ基町にある広島市民病院にかかったのがきっかけだった。

 1996年、妻は74歳で逝った。一人住まいの基町に今、市内で暮らす長女と長男がたびたび訪れ、食事などの世話をしてくれる。「心配はかけとうない」。長い距離はもう歩けないが、手押し車をゆっくり押し、日課の散歩に出掛ける。

 戦時中のことを尋ねると「あまり話したことがないんじゃが」。ためらいつつも「全部ここに入っとる」と人さし指で頭をつつき、当時をたどっていく。

 皆実町(現南区)の陸軍電信隊に所属していた1942年、南方戦線へ送られた。前線からガダルカナル島へ向かった船が米軍の空襲で沈み、無人島に泳ぎ着いた。食糧もないまま約2週間後、ようやく救助された。1943年に日本に帰還の際も魚雷攻撃に遭い、多くの仲間が海に沈んでいく光景を目の当たりにした。

 そして1945年8月6日。三原の教育隊にいて「広島がやられた」と聞いた。7日未明、列車で広島に到着。暗闇の中を電信隊まで歩いた。夜が明け、視界に入ったのは一面の焼け野原。うつぶせで息絶えた女性を見た。手を伸ばして「水を」と懇願する声を聞いた。任務の遺体整理は3日間にわたった。

 「本当にむごい。軍人の自分は、戦争で死ぬのは当たり前と考えとった。だが、広島を見て、禁句だった言葉が頭の中を駆け巡ったんですよ。『戦争はいけん』と」

 26歳で結婚し、国鉄(現JR)の事務職として働いた。定年退職まで三原から広島へ通勤を続けた。ビルが立ち並び、市民の暮らしが編み直されていく被爆地の姿を間近に見てきた。竹内さんの老後も今、その中にある。

 今月18日、高層アパート屋上の集会所に談笑が響いた。地元の老人会が開いた誕生日会。お年寄り約30人と手料理をつつき合う竹内さんが、壁の額を見上げる。やはり自筆の書「和以為貴」が掛けてある。

 「聖徳太子の言葉を書いたんよ。和を大事にし、争い事をなくさんと。勝っても負けても、戦争は犠牲者を生むんじゃからね」。何度も繰り返した。

(2010年7月25日朝刊掲載)

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