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連載・特集

被爆65年 ヒロシマ基町 第1部 3人の軌跡 <6>

■記者 増田咲子、林淳一郎

希望の砂漠 復興期 笑顔戻る盆踊り

 太鼓の周りで女性たちが楽しげに踊っている。丸刈り、おかっぱ頭の子どももみんな笑顔だ。

 広島市中区基町に林立する高層アパートの一室。被爆者の増井竹代さん(91)が古びた白黒写真を取り出し、記憶をたどった。

 「盆踊りの練習でしょうね。原爆が落ちて数年後かしら」

♪ハアー廣島基町チャ

♪チョイト希望の町よ

♪原子沙漠(さばく)の真中(まんなか)で

 増井さんは写真と一緒に、ガリ版刷りの歌詞を大切に保管していた。11番まで続く「基町音頭」だ。夫照夫さん(1997年に82歳で死去)が作詞した。

 「大人にも子供にも踊れる苦心の作」と1947年8月15日付の中国新聞が伝える。

 「一本気でしたが、世話好き。原爆で多くの人が亡くなり、みんなに喜びと希望を感じてほしかったんでしょう」。歌詞にこめた夫の思いを竹代さんが推し量る。

 原爆投下で皆実町(現南区)の自宅は倒壊。竹代さんは照夫さんと義母の3人で、基町で暮らしてきた。今の中央公園一帯に建ち始めた木造住宅が新居だった。

 照夫さんは会社やスーパー勤務の傍ら、俳句をたしなんだ。晩年もデイサービスに通いながら句作を続けた。今もアパートに松尾芭蕉を特集した雑誌が残る。「見守ってくれている気がして」と竹代さんは、いつも外出用かばんに夫の写真を入れている。

 「確か盆踊りはありました。それだけでなく、仮装行列など地区の催しはさまざまでした」。1946年から基町に住み、増井さん家族と「ご近所」の下條伊勢さん(90)も懐かしむ。

 あの日、下條さんは郷里の長野県へ疎開。軍人だった夫謙介さん(2008年に95歳で死去)は比治山付近(現南区)で被爆した。戦後、謙介さんは県庁に勤め、伊勢さんは地元婦人会の役を引き受けた。「ぜいたくはできないけど、みんな助け合って。夫もよく『平和がええ』と言っていました」

♪平和の月明(あか)り

♪平和文化の花が咲く

 照夫さんは歌詞に「平和」の言葉もちりばめた。そんな基町音頭はやがて、地区の再開発などに伴って姿を消したものの、現在は詞も曲も衣替えした新「基町音頭」が住民に親しまれている。

 1983年に地元民謡グループが作り、いったん途絶えたが2003年に復活した。今年も8月8日、基町小である原爆慰霊祭後の盆踊りで披露される。

♪基町よいとこね

♪みどりのまち

 人々が紡いだ希望が砂漠に潤いをもたらした…。新旧の音頭が、地区の復興史を奏でる。

(2010年7月22日朝刊掲載)

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