×

連載・特集

被爆65年 ヒロシマ基町 第2部 今なお <3>

■記者 新田葉子

二重の記憶 夫妻で体験分かち合う

 妻は夫の戦争体験を、夫は妻の被爆体験を、そらんじている。「2人とも、死ぬ思いをして生き延びたから」と藤川律子さん(79)。広島市中区基町の高層アパートで、夫の幸三(こうそう)さん(85)と2人で暮らす。

 律子さんは足腰や心臓を、幸三さんは頸椎(けいつい)を痛め、外出には互いに付き添う。今月中旬、幸三さんは短期入院した。律子さんは毎日、病院に見舞う。

 夫妻が基町の市営住宅に入ったのは1955年だった。その5年前に夫の郷里の三次市を離れ、千田町(現広島市中区)に家を借りた。だが、畳はまばらで、雨漏りもした。だから、古い木材を使った小さな市営住宅であっても「やっと家らしいところに来た」とほっとしたという。

 3軒並んだ木造平屋の真ん中だった。幸三さんは風呂や家具をこしらえ、家族の暮らしを整えていった。「子どもたちをどうしても大学に」と夫妻はそれぞれ会社や税理士事務所で懸命に働いた。

 そうした日々の合間に夫妻は、それぞれの体験を語り合ってきた。

 律子さんは市立第一高等女学校(現舟入高)3年生だった。舟入中町(現中区)の自宅2階で髪を整えようと鏡に向かったら「ピカ」と光った。崩れた屋根の下から、はい出したが、階下にいた母(68年に75歳で死去)がいない。隣人が「もう逃げた」と言うのも聞かず呼び続け、食器棚とともに抜け落ちた畳の下から引き上げた。一緒に逃げた。

 その時に受け取った罹災(りさい)証明書は、茶色に変わった今も大事に押し入れにしまっている。開くと当時の惨状、次々と亡くなった被災者の様子が、よみがえってくる。

 「生き残ったもの同士だよ」と幸三さん。やはり九死に一生を得た。1945年8月10日、群馬県から750キロの爆弾を抱えた飛行機でサイパンへ出撃するはずだった。だが、敵襲を受けて延期になり、結局、出撃しないまま終戦を迎えた。そのころ幸三さんの実家には、「最後の奉公」を伝える軍からの手紙が届いていたという。

 互いの記憶を分かち合う夫妻の姿に、小学校教諭の長女(50)は思う。「子の成長を見るにつけ、両親のしんどさ、力強さをますます感じる」。子や孫、そして自分の教え子に伝えるため、あらためて両親から体験の聞き取りを始めたところだ。

 8月6日。律子さんは今年もナスを焼き、仏壇に供える。あの日、家族の朝ご飯になるはずだった。そしてお盆に集まる孫やひ孫に直接、あの惨状を語って聞かせようと思う。すでに「しっかり話をしたげるけんね」と約束している。

(2010年7月27日朝刊掲載)

年別アーカイブ