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連載・特集

被爆65年 ヒロシマ基町 第2部 今なお <4>

■記者 新田葉子

入市 病との闘い 苦しみ同じ

 毎週火曜と木曜の午前9時。手押し車に酸素ボンベを載せ、玄関の戸を開ける。リハビリも兼ねてデイサービスに出掛ける日だ。広島市中区基町の高層アパートに暮らす入市被爆者の古河明美(あきよし)さん(79)の一日が始まった。

 6年前に脳梗塞(こうそく)を患ってから、まひが残る。立て続けに肺がんや心筋梗塞にも襲われた。いまも、少し歩くと息が上がる。

 それでも「しゅんとするのは好かん」と、デイサービスに行かない日もできるだけ外に出る。自身の体調と相談しながら、郊外の広島県府中町まで電動自転車を走らせたこともある。

 同じアパートの共働き世帯が日中、小学生の子を預けに来ることもある。「一緒に旅行にも行くよ」。別の知り合いから夕食が届くこともある。近所付き合いに感謝する。

 そんな基町に来て21年。妻や母に先立たれてからは17年間、ここで一人で暮らす。

 父を早くに亡くし、戦時中は祖母と母、弟妹とともに大手町(現中区大手町2丁目)に住んでいた。1945年3月、現在の廿日市市に疎開。学徒動員先が休みだった8月6日朝、爆風を感じた。自宅や近隣が気になり、庚午橋(現西区)辺りまで出向いた。燃えさかる火を見て、それ以上はあきらめた。

 2日後、家族とともに大手町に入ると、自宅は完全に焼け落ちていた。近所にあった親類宅で、叔母といとこの骨を拾った。

 戦後は大阪での修業を経て1950年に広島に戻り、吉島(現中区)に家を建てた。昼間は建設の仕事で汗を流し、夜は大手町で母とともに屋台のラーメン店を開いた。その後、建設の仕事の関係で中近東に長く滞在。久しぶりに広島に戻り、基町を住まいに決めた。

 元気なときは「原爆がなかったら」と思ってもみなかった。入市被爆者として「病気は原爆のせいとは言い切れんのかもしれん」と自分に言い聞かせてもきた。2004年、肺がんが見つかると、周囲の勧めもあって原爆症の認定を申請した。「毎日のように中心部でがれきを掘り起こした」との主張は半年後、却下された。

 「地獄を体験した直接被爆と、その後を見た入市被爆。それぞれの思いが違うのは当たり前じゃろう。でも、放射線のせいで病気に苦しむのは同じじゃないんか」。書類1枚で簡単にはねられるのは納得がいかなかった。集団訴訟に加わると、国は2009年3月の判決を前に、古河さんを原爆症と認定した。

 まひが残る体で、以前はできていたことができない。それでも「しもうた、とは言いたくない。しゃんとせにゃあ」。きょうも外出や家事に精を出す。

(2010年7月28日朝刊掲載)

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