×

連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第1部 カナダに生きて <6> 

■記者 西本雅実

自分史 次代へ 2カ国語出版  橘美沙子さん(66)と溥(ひろし)さん(60)は2人暮らし。子どもはいない。「ほしかったけど、できなかったのは私のせい」。淡々と言葉を継いだ。

 結婚3年目の40歳。待ち望んでいた知らせに接した。喜びのうちに自宅の購入契約を交わそうとした日、誤診と分かった。「原爆の放射能を浴びたことと関係があると思う…」。医師からは腎臓(じんぞう)の発育が悪く、小さいと言われた。

 美容師の仕事は順調だった。気を取り直して買った自宅でやがて店を構える。「ミサコ・ビューティー・サロン」。2本の指は動かない代わりに、手の早さ、正確さはだれにも引けを取らなかった。

 尋ねられると、「あの日」広島で遭った、見たこと、渡米治療を通じて人々の愛に触れ生きる勇気を取り戻したこと…。そして何より戦争を憎んでいることを肩ひじ張らずに伝えた。

 「こちらの人は傷跡についても遠回しに聞いてこない分、話をすると、同情でなく真剣に耳を傾ける」。そこが日本と違うといった口ぶりが伝わる。

 小さいながら、まとまりがあるウイニペグの日系社会で多くの友人もできた。溥さんは現地の日本総領事館で会計の仕事を得た。永住の地のはずだった。それが一転した。

 総領事館が4年前に突然閉鎖となり、夫は職を失う。やむなくその2年後、カナディアン・ロッキーを案内する旅行社に移り、単身で働く。妻は36年間に及んだ美容師を退いた。「やはり夫婦は一緒にいてこそ。それに、2人いつまで元気で過ごせるか分からないじゃない」。自宅と店をたたみ、約1300キロ西のカルガリーに引っ越した理由をそう語る。

 「アイム・ハッピー・ライト・ナウ(今は幸せよ)」。被爆50周年の昨年、初めてカナダの新聞、テレビに出た。それがきっかけで、渡米治療当時の「パパさん」と再会がかなう。ネバダ州にいた元歯科医は妻を亡くして1人暮らし。散らかった部屋を片付け、洗濯をし、積もる話を交わした。

 「あのころは言葉が分からずベビー・トーク。それが、大人の会話ができた。喜びや悲しみ。それを分かち合えたの」。「ガールズ」時代のアルバムを繰る表情はどこまでも明るい。

 庭の手入れや、ちぎり絵、手芸、近所に住む日系1世のお年寄りとの語らい…。3種類の年金を手にする今、人生を心ゆくまで楽しむ。「年を取ればだれしも病気は…」。被爆の影響はなるべく考えないようにしているという。それでも、帰国のたびに広島赤十字・原爆病院での検診は欠かさない。

 その広島には2つ違いの姉家族がいる。「おいやめいに、叔母はこんな人生を送ったのかと知ってもらえればいい。そんな気持ちで書き始めたの」

 「閃(せん)光の反射」。これまでの思いの丈をつづり、その題で自分史をまとめた。結婚式の介添人や地元の日系2世が翻訳を手伝い、近く日英両語で自費出版する。序文は広島にいる「ガールズ」の仲間の1人が寄せた。

 溥さんもこの春に旅行社を辞めて、文字通りの夫婦水いらずに。「素晴らしい人たちとの出会いがあった。過去をこうして語れるまでになった。生きててよかったと本当に思うわ」。あふれる笑みがこぼれた。=第1部おわり=

(1996年6月21日朝刊掲載)

年別アーカイブ