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連載・特集

65年の夏 広島一中3年生の軌跡 <1> 傘寿

■編集委員 西本雅実 

被爆を問う 命ある限り

 広島市佐伯区に住む森下弘さん(79)は今、同級生らの「被爆体験に関するアンケート」をデータ化し、同意を得て公開したいと考える。65年前に広島一中3年生だった同級生のうち35人から手書きで寄せられ、保存する。

 自宅を訪ねると、穏やかな口調で真意をこう話した。「同じ場所で被爆しても、その後の生き方や考え方はそれぞれ違う。皆がどう思ってきたのかを総体的に伝え残したい」。80代が目前となり焦りも覚えるという。

 戦時下の動員作業の様子に始まり、被爆の瞬間に感じたこと▽避難経路▽けがの状態▽家族の状況▽終戦をどう受け止めたか▽卒業後の歩み▽結婚の支障や遺伝への不安▽原水禁運動への見解…。

 質問は約80項目に及ぶ。自身は廿日市高教諭だったころに練り、戦後日本が高度経済成長の波に乗っていた1967年夏に募っていた。

 同級生という具体的な集団を通じて被爆の実像を探る調査。ヒロシマの歴史に照らせば、「具体的な、ある町の、すべての人間が、原爆によってなにがもたらされたか」を68年から追った広島大原爆放射能医学研究所(当時)などの「爆心復元作業」に先んじた営みでもある。

 回答者には74年に再び思考歴を、昨年は連絡がつく人に近況を尋ねた。回答欄には「空白」も目立つ。同級生にも言いたくない、沈黙を貫くという複雑な思いがうかがえる。

 森下さんは京橋川に面する鶴見橋西詰め(中区)で被爆した。広島市の第6次建物疎開に動員され、作業前の訓示を聞いていた。その瞬間を「巨大な溶鉱炉に投げ込まれた」と表す。遮へい物すらなかったが、同級生約75人とともに奇跡的に一命を取り留める。しかし、西白島町(同)の自宅にいた母芳子さん=当時(40)=は下敷きとなり死んだ。

 大やけどで寝たきりの日々を乗り越え翌年春に復学。広島大文学部を卒業した55年に教師となる。「顔に負ったケロイドは原爆のせいだと叫びたい憤り」を押し抱き、「人間らしくどう生きるか」に悩んだ。やがて、被爆に真っ正面から向き合っていく。

 広島に移り住んだ米平和運動家バーバラ・レイノルズさん(90年死去)が東西冷戦の最中に提唱した「世界平和巡礼」に64年参加し、欧米を回る。帰国後は平和教育に打ち込む。彼女が創設したワールド・フレンドシップ・センター(西区)の理事長を25年間にわたり引き受ける。

 「核兵器や紛争、飢餓はなぜなくならないのか。自ら学び考えることから解決の道筋は見えてくる。被爆体験があるから分かるのではない」。体調や都合が許す限り今も若い人たちに語り続ける。

 アンケートに答えた同級生35人の消息を確かめると、10人が亡くなっていた。「自分も年を考えれば残り時間は差し迫っている。きちんとまとめ残すのが最後の務めだと思っています」。回答を寄せた同級生はどう生きてきたのか。一中3年生をさらに訪ねる。

(2010年8月14日朝刊掲載)

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