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連載・特集

65年の夏 広島一中3年生の軌跡 <2>手記集「泉」

■編集委員 西本雅実 

友のひたむきさ忘れぬ

 広島で被爆翌年に初めて出た手記集を「泉―みたまの前に捧ぐる」という。わら半紙にガリ版刷りの67ページ。被爆時に一中3年だった生徒らが編さん。実物は確認できる限り1冊しか残っていない。

 「三十五学級」(3年5組)は1945年8月6日、爆心地から約800メートルとなる小網町(中区)一帯の建物疎開作業を命じられ、そこに出た約40人が全滅する。本来は、現在の西区高須にあった航空機部品工場の「広島航空」が動員先。生徒は「御楯(みたて)隊」と呼ばれていた。

 「私に話せる資格があるのか…。死んだ級友のことを思うと罪悪感がぬぐえません」

 東区に住む須郷頼巳さん(80)に「泉」のコピーを送ると、困惑したような表情を浮かべ玄関を開けた。「身命を捧(ささ)ぐを最大の本望とし」た級友を追悼する一文が残る。

 須郷さんも1944年秋から「広島航空」に動員され板金作業などを連日こなしていた。そこへ海軍飛行予科練習生となった一中の先輩らが「後に続け」とげきを飛ばしに現れた。

 戦局の悪化はひしひしと感じていたが使命感が勝った。列車の沿道に立った級友らの歓呼の見送りを受け、防府市にあった海軍通信学校(1943年開校)に1945年7月25日入った。

 広島壊滅は学校の張り紙で知ったという。8月18日に入市被爆して西蟹屋町(南区)の自宅にたどり着く。両親はいたが、妹の市立高女1年光枝さん=当時(13)=は現在の平和記念公園南側の建物疎開作業に出たまま行方が分からず、遺骨が見つかったのは20年後。

 復学すると、心ない言葉や視線にさらされた。ある教師からは「生き残りか。おまえのクラスはもうない」と言い放たれたという。

 「なぜ自分は生きているのかを、説明するのがたまらなく嫌だった」という。申し訳なさにかられ級友の墓参りに回ると、「喜んでくれる親御さんもいましたが、恨めしそうにされる方もいて。そうするうちに秋田さんから手伝えといわれて」。

 秋田正之さん(元広島市議会議長、1975年死去)は、今も続く「一中遺族会」をつくり、米軍占領下の1948年に校内に「追憶之碑」の建立を実現させた一人。3年生だった長男耕三さんを失っていた。

 須郷さんは遺族の名簿作りに努め、大学進学で広島を離れても、南区に本社がある電気工業の役員として多忙になっても慰霊祭の世話を続けた。平和大通り近くにある「被爆動員学徒慰霊慈母観音像」の建立(1966年)にも当たっていた。

 「最近は核兵器の存在ばかりが強調されて訴えられ、私はどうも…。今の若い人にはなかなか理解できないでしょうが、最期まで純粋に国を信じて生き、亡くなった人たちのことを忘れてほしくないですね」。重い記憶を、そう語り終えた。

 後身の国泰寺高で営まれた今年の慰霊祭にも須郷さんは妻と参列した。妻の兄で一中1年生だった飯島利彦さんが学校で亡くなった。一中の原爆死没者は生徒353人と教職員15人を数える。

(2010年8月15日朝刊掲載)

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