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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第2部 日米を結んで <2>

■記者 西本雅実

被爆牧師 渡米治療への道開く

 「考えがひらめいたら実行する人でした」。瀬戸内海を望む広島市西区の自宅で、谷本チサさん(80)は亡き夫の横顔を簡潔にそう表した。渡米治療は、広島流川教会の牧師だった谷本清さん=1986年死去(77)=の持ち前のアイデアと行動力、そして米国とのつながりから興る。

 香川県出身の谷本牧師は、戦前に米国南部のエモリー大神学部で学んだ。大戦中の1943年に沖縄から流川教会に赴任し、原爆に遭う。それから3年後。留学時代のつてを頼りに1年半近く米国を回り、いち早く原爆被災者救援を目的にする「ヒロシマ・ピース・センター」の建設を訴えた。

 渡米治療で「ヒロシマ・ガールズ」と呼ばれるようになる女性たちとの出会いを、著書「広島原爆とアメリカ人」に記している。「礼拝を開始してから間もなく(略)その中に1人の若い女性、見る目も痛々しい被爆者があった」

 学徒動員による建物疎開作業中に被爆した女性との出会いをきっかけに、彼女の同窓生たちに「教会に足を運ぶよう」声を掛けた。20歳前後になっていた女性たちは、やがて寄付のミシンを踏んで、洋裁で自活の道を目指すようになる。

 米国での経験からPRのすべを知り、マスコミも意識的に活用した。講演で当時の流行作家真杉静枝さんが広島を訪れると、彼女たちを連れて治療への支援を呼び掛ける。それが功を奏して1952年、9人が東京大で、続いて12人が大阪大などで診察を受ける。

 その年の4月には対日平和条約が発効し、占領は明けていた。新聞・ラジオは「原爆乙女の上京」「A級戦犯を慰問」などと、その行動を大きく取り上げた。一方で、世間の耳目を集める牧師への風当たりも強かった。「原爆を売り物にしているとまで、たたかれたんです」とチサさん。

 1人の牧師がしゃにむに投じた被爆者救援への動きは、ヒロシマを強烈に刺激した。渡米治療に同行した原田東岷医師(84)は中区の自宅で振り返る。

 「東京などへ行かなくても、われわれがいるじゃないか。手探りから原爆症の治療を続けている地元の医師たちが発奮した。燃えた」。やはりガールズに付き添う大内五良医師=1984年死去(74)=と被爆者の無料検診を実施する。これが翌1953年の広島市原爆障害者治療対策協議会(原対協)の結成につながっていく。

 「ヒロシマ・ピース・センター」は、作家パール・バック女史=1973年死去(80)=や、ニューヨークで創刊された雑誌「土曜文芸評論」主筆のノーマン・カズンズ氏=1990年死去(75)=が理事として名を連ねた。原爆孤児へ養育資金を送る「精神養子」運動は、米国にできたこのセンター協力会を窓口に広がった。

 渡米治療は、その精神養子運動の提唱者で、ユダヤ系米国人、カズンズ氏の広島再訪で歯車が回り出す。カリフォルニア州に健在の夫人、エレン・カズンズさん(82)は昨日のように語る。

 「ノーマンは『米国人はヒロシマの現実を理解していない』と考えていたの。ただ、米国での治療は政治的な問題が絡むし、ガールズに何かあった場合は責任も問われる。それでもしなくてはいけないと、持てる力を振るったの」

 治療を引き受ける病院探しに奔走する。1955年、カズンズ氏がニューヨークのマウント・サイナイ病院の医師2人を連れて戻って来た。流川教会でのガールズとの出会いから1年半余。だが、渡米治療を見る被爆地の視線は複雑だった。

(1996年7月9日朝刊掲載)

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