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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第3部 半世紀を超えて <2>

■記者 西本雅実

精神養女 支えられ日々を疾走

 太平洋を望む米ロサンゼルス郊外のマリーナ・デル・レイ。部屋の外には、西海岸有数のヨットハーバーが広がる。シゲコ・ササモリ(恵子・笹森)さん(64)は「とても見晴らしがいいでしょ。ノーマンもここを気に入ってるの」と、ベランダに素足で心地よさそうに立った。

 風が陽光の中でそよ吹く居間を飾る「2人のノーマン」の写真。「ヒロシマ・ガールズ」治療事業のけん引者だった故ノーマン・カズンズ氏=1990年死去(75)=と、1人息子のノーマン・ササモリさん(33)。3年前に弁護士事務所を開き、親子2人で暮らす。

 「私の精神親だったカズンズさんの名をもらったの。相手の気持ちになって行動する人たちに励まされ、支えられた。また、その姿からたくさんのことを学んだわ。人生の糧ね」

 色鮮やかなTシャツ姿が若々しい。その小柄な身で「あの日」からを駆け抜けてきた。市民権を取った米国での暮らしは、40年目に入る。

 被爆したのは、おかっぱ頭の広島女子商1年の時。鉛筆も持てないほど手を焼かれて復学は断念した。代わって、渡米治療の提案者になる谷本清牧師=1986年死去(77)=がいた広島流川教会が「学校」になった。同じ世代の被爆女性が集まったバイブル・クラスに通う。洗礼を受け、看護婦を志すようになった。

 21歳の秋。広島再訪の旅にあったカズンズ氏が流川教会を訪ねる。そこでの出会いが、「ファーザー(お父さん)」と終生呼ぶきっかけになった。「私が精神的にあまりに幼く、初めから気になっていたみたい」と笑う。

 渡米治療を終えて帰国した翌1957年、カズンズ氏の支援で再びニューヨークに渡り、看護学校と夜間高校に通う。右手の小指と薬指は今も曲がったまま。准看護婦として働くにも障害と辛苦がついて回った。

 「その時々は泣いたかもしれないけど、悩まない性格ね」。シングルマザーになっても、前を見続けて歩む姿勢が、米国で生きる道を選ばせた。

 ロサンゼルスに移ったのは1980年。新生児を扱う看護助手をする傍ら、本格的に被爆の証言活動に取り組むようになる。膠(こう)原病を克服して、カリフォルニア州立大医学部の教授となったカズンズ氏の勧め、期待にこたえた。

 米上院であった初の被爆者証言(1980年)、ボストンでの反核クラシック・コンサート(1982年)、約2万人が集まったロサンゼルスの「サバイバル・デー集会」(1984年)…。日夜接する、幼い命のためにも訴えずにはおられなかった。

 さまざまな人との出会いが、新たなつながりを生み、見知らぬ世界を開く。映画「バットマン フォーエバー」の主演スターから求められて、子どもたちのベビーシッターを務める。自宅に訪ねた前日までは、ハンセン病にかかった人たちを訪ねてハワイに行っていた。

 「被爆者だけが苦労したんじゃない。世界にはもっと知られ、伝えられなくてはいけないことがあると思うわ」

 「パールハーバーで亡くなった人もいる。戦争が起きるとだれもが犠牲者になる。ヒロシマを見てくれでは、通用しないわ」

 ぽんぽんと言葉が飛び出す。笑みがはじける。「あら。もうこんな時間」。日本からの友人と会食するため、慌てて身支度を始めた。

(1996年7月27日朝刊掲載)

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