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米の日系語学兵が面接 1945年12月 広島の被爆者調査 

■編集委員 西本雅実

 原爆により廃虚となった広島で1945年12月、米陸軍情報部(MIS)の日系語学兵が被爆者らの聞き取り調査を担っていた。ユタ州で健在のワタル・ミサカさん(87)の面接録音テープや手書きメモが原爆資料館で見つかり、中国新聞の取材に詳細を語った。日系語学兵の任務は戦後も機密指定が続き、90年代から退役兵らが証言を始め、陸軍省は2006年に史書を公刊したが、被爆地での活動の様子が初めて明らかになった。

 広島市が米国立公文書館から1974年に入手した被爆者13人の声を収めた録音テープの中にミサカさんによる記録が含まれていた。証言や米軍史書によると、進駐した日系語学兵は、連合国軍総司令部(GHQ)の翻訳通訳部(ATIS)に所属し、米戦略爆撃調査団が11月上旬から12月下旬にかけ、全国60カ所で行った空爆効果の調査に同行した。

 広島での調査は、日系語学兵10人や白人士官、技師ら約30人が従事。12月1日から2週間、焼け残った旧東警察署(中区銀山町)を拠点に、「アトランダム(無作為)に抽出した市民を午前と午後に1人ずつ面接」。質問は、戦争中の暮らしから指導者への意識、原爆をどう思うかなどの41項目。ローマ字で書いた日本語の質問票に沿い、回答を英文で要約したという。

 「日本人は求められる答えをしようとするので、感情を傷つけないよう尋ねた。やけどの幼子を連れた女性を面接したのをよく覚えている。被害者の大半が非戦闘員だった。原爆投下は対日戦の終結を早めたと今もいわれるが、広島をみた私は同意できない」

 両親は現在の尾道市出身。除隊後はアジア系で初の米プロバスケットボール選手になったミサカさんは国際電話の向こうで語った。

 調査団が47年にまとめた報告書によれば、広島・長崎では計128人を面接し、7人につき1人を録音。原爆投下の効果は「物的破壊は大きかったが、降伏の政治的観点からすると、それ自身重要な動機とはならなかった」と結論付けている。

内容の再評価を
米戦略爆撃調査団についての論文を70年代に著した宇吹暁広島女学院大教授の話 

 日系語学兵という集団がかかわっていたとは。米軍の調査結果は偏った見解もあるとはいえ、生き残った人たちは原爆投下はけしからんとの思いや、恨みも尋問に表している。被爆直後の生の感情を伝える調査内容はもっと再評価・検討されていい。

日系語学兵
 米陸軍省刊行の「ニセイ・リングイスツ」などによれば、情報部は1941年に日本語学校を設立。招集され語学訓練を受けた日系2世らは、太平洋戦線で日本人捕虜の尋問や無線傍受などに当たり、進駐後は約2660人が占領政策の翻訳通訳に携わった。マッカーサー総司令官の専属通訳を務めた両親が広島出身のカン・タガミさん(故人)ら語学兵の証言が近年、米国のウェブサイトでも紹介されている。

(2010年1月6日朝刊掲載)

 

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